*木田澄玲*

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*木田澄玲*

 カラオケボックスを出て、家に帰るなり、母親から「こんな遅くまでどこ行ってたの」と小言をくらった。時刻は八時を過ぎたばかりだ。 「言うほど遅くないし」  私はぼそぼそと反論した。 「どうせ遊んでたんでしょ。勉強もしないで」 「勉強してたら遅くなってもいいんだ?」  母親は不機嫌そうに顔を歪めた。 「またあんたはそんな言い方して! 昔は素直だったのに」  素直だったんじゃない。あんたの言うなりになっていただけ。  喉まで出かかったが、私は堪えた。言いたいことを言ったら、母親はヒステリックに喚き出すに決まっている。面倒はごめんだ。私はまだ何か言いたそうな母親を無視して二階の自室に向かった 「……うっざ」 ベッドに寝転がった私は小さく吐き捨てた。母親とはソリが合わない。昔から。  だが、母親の言うとおりにがんばっていた時期もある。習い事も、塾も、なんだって母親の望むようにこなした。母親に褒められたくて、友達と遊ぶ時間も削って、たくさん努力した。だけど、どれも中途半端に終わった。  ピアノは後から入ってきた子に課題曲を追い抜かれたし、バレエは一度だって主役を演じたことはない。勉強も百点を取れたことはない。よくて、平均点よりちょっと上くらいだった。  コンクールやテストのたび、母親はいつも残念な目で私を見て、ため息を吐いた。「あなたって、何をさせてもダメね」と副音声付きで。  不器用なあんたから生まれたんだから諦めてよ。  そう言い返せたらどんなにスッキリしただろう。しかし、母親を盲信していた頃は、母親を失望させる自分が価値のない存在のように思えて、苦しかった。どんなにがんばっても、結果が出なければ認めてもらえない。でも、いつかは褒めくれるはず。  そう信じて、バカみたいに努力を重ねた。全部無意味だったけれど。  私は愚かで無知だった過去を忘れるように目を閉じた。  いつの間にか、眠っていたようだ。薄く目を開けると、部屋の灯りは消えていた。消した覚えはない。  家族の誰かが消したのだろうかと疑問に思いつつ、何時だろうとスマホに手を伸ばす。だが、指先でシーツを掻くばかりで、腕が動かなかった。 「……なんで? ウソでしょ?」  慌てて起き上がろうとするも、腕どころか全身が動かない。金縛りだと気づいた瞬間、全開になった窓からゴォ……と風が吹き込んだ。  窓は開けていなかったはずだ。それなのに、何故?  パニックになりながら視線を動かすと、パタパタと揺れるカーテンの陰に隠れるように、あいつがいた。 「……ひっ」  悲鳴は喉奥で詰まり、声にならなかった。あいつはセミロングの髪を振り乱し、横に小刻みに揺れ、じっとりとした嫌な目つきで私を見ていた。顔は青白く、いかにも幽霊ですと言わんばかりの風体だ。 「な、によ……」  振り絞って出した声は喉に張りつき、掠れていた。 「仕返しのつもり? 勝手に死んだくせに」  あいつはじりじりと近づいてきた。逃げたいのに、体が動かない。ベッドの上でもがいているうちに、あいつは私の顔を覗き込んできた。  観察されている。光のない虚ろな目でじぃっと凝視されているうち、言いようのない不安と恐怖が喉元までせり上がってきた。目を逸らしたくても逸らせない。鼻先が触れそうなほどの距離まで近づいてくる。あいつの瞼がもぞりと動いた。瞼と眼球の隙間から、ぼとりと白い幼虫が這い出て、私の口元に落ちる。  ぼとぼと、ぼとぼと。  次から次へと大量の幼虫があいつの体から湧き出て、私の体に落ちてくる。幼虫は私の体の上を這いずり回り、耳や鼻、悲鳴を上げた口からも入り込んでいった。  ああ、これは、夢だ。現実に起きるわけない。虫が、体内に入り込むなんて。 ――違う、夢じゃない。  私たちがあいつにしたことだ。公園の片隅で、虫の死骸をあいつに食べさせた。無理やり口にねじ込み、飲み込むまで口を押さえてやった。あいつはもがいて吐き出そうとしたけれど、結局飲み込んだ。「うわ、マジで食べたよ」とドン引きするカスミの隣で、ユリは「食レポしてくんない?」と笑っていた。 私も、笑った。おかしくて、おかしくて、たまらなかった。だって、虫が虫を食べているのだ。共喰いだ。 「仲間を食べた感想はどう?」  あいつは口を押えたきり答えようとしなかった。だから、私は――ああ、違う、違う!  感想を聞かれたのは私だ。でも、飲み込んだ虫を吐き出してしまい、腹を蹴られた。 「ちゃんと食えよ!」  吐瀉物に混ざった虫をもう一度食べさせられるのと容赦ない暴力とを天秤にかけ、私は自分で摘み上げて飲み込んだ。 「アハハ、虫が虫食ってるぞ!」  ゲラゲラと笑う同級生たち。あいつに、したこと。私が、されたこと。記憶が交互に甦る。もぞもぞと這い回る幼虫が私の内部を食い散らかすように。  やめて。許して。  請うのはあいつか、私か。嘲笑と幼虫の這いずる音が重なる。 「あ……ああっ……!」  私は自分の悲鳴で目が覚めた。全身は汗でびっしょりと濡れていた。当然虫などいなかったが、体の中を這いずり回っているような感覚があり、吐き気が込み上げてくる。慌てて口を押えた。けれど、喉に詰まって何も出てこなかった。最悪の気分だった。  のろのろと起き上がり、用心深く部屋の中を見回す。何も変わったところはない。窓は閉まっていたが、カーテンは開けたままだ。  あいつの姿が脳裏をよぎる。  いるわけない。  私はすぐに否定し、カーテンを閉めようと窓辺に寄った。ふと、外の道路からこちらを見上げる人影に気づいた。  セミロングの黒髪。学校の制服。顔の細部までは見えないが、間違いない。あいつだ。  目が合った。遠目にも、はっきりと私を睨みつけている。夢がフラッシュバックする。  無理やり食べさせられた虫の死骸。絶え間ない嘲笑。繰り返される暴力。脳内で渦巻くのはどちらも実際にあった私の過去だ。  あいつに、したこと。私が、されたこと。  私は慌ててカーテンを閉め、ベッドの中に逃げ込んだ。朝起きたら、今日のことを忘れていますようにと願いながら。
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