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*巳波侑里*
日が暮れるのが、日を追うごとに早くなった。病室はすでに薄暗かったが、電気はつけていない。ユリが明かりをつけることを嫌ったからだ。
カスミに切りつけられてからというもの、ユリは父親が懇意にしている病院に入院したままだった。一日の大半を病室のベッドで過ごしている。毎日母親が見舞いに来るが、傷が治るまでは家族とすら会いたくなかった。
傷は時間が経てば治る。痕も残らないだろうと医師から告げられている。それでも、傷ついたままの醜い姿を晒すのは耐えがたかった。生きている価値がないとさえ思う。美しくなければ、自分ではない。美しさこそ自分の価値なのだ。
美しさを至上の価値としたのは、祖母だった。祖母もまだ、美しい人だった。老いてなお、凛として気品があり、冷徹でもあった。ことあるごとに、女は美しくなければ価値がないとユリに教え込んだ。そして、ユリの母親を嫌った。母親も万人に比べれば美しい方ではあったが、祖母のお眼鏡に適う美人ではなかったからだ。ユリもまた、母親を見下すようになった。
美しさこそすべて。
美しければ、何をしても許される。
だが、今のユリは美しくない。
その価値を脅かしたカスミは絶対に許さない。だが、当の本人は死んでしまった。怒りをぶつける相手がいない。
ユリはガーゼの上から額の傷を撫でた。治りかけの傷が疼く。腹立たしい。傷つけたのはカスミだが、元はと言えばアオイのせいだ。アオイが幽霊だとか呪いだとか言い出したせいで、スミレもカスミもおかしくなってしまった。
「……そうよ。あいつのせいよ。アオイがあいつを連れてくるから」
アオイが連れてきたあいつは、暗くて大人しいタイプだった。アオイと仲良くなるくらいだから、アオイと同じ卑屈な性格だと思っていた。
けれど、印象に反して、あいつは骨があった。アオイのようにすぐ泣くことも、媚びることもなかった。スミレが痛めつければ痛めつけるほど、あいつは反抗的な目つきで睨んできた。その態度がスミレは気に食わなかったようだけれど、ユリは踏みにじり甲斐があると好ましく思った。自分を愉しませてくれる存在はいい。だが、あいつも死んでしまった。
スミレもカスミも、自殺だと言っていた。ユリはとたんに興味を失った。死んだのなら、そのまま大人しくしていればいいものを。幽霊の仕業だとか呪いだとか、現象の原理などどうでもいい。自分の価値が脅かされること自体が不快で腹立たしい。
「あいつさえいなければ……あいつ、マジで殺してやりたい」
恨み言を吐き出すたび、傷が疼いた。
空気が動く気配がした。個室の病室に入ってくるのは医師か看護師、母親くらいだ。ベットの周囲はカーテンで仕切られて、誰が入ってきたのかわからない。
「……誰?」
ユリは身を固くし、警戒心を露わに尋ねる。返事はなかった。けれど、何かがベッドに近づいてくる。息をひそめたまま、ユリはナースコールに手を伸ばした。押す寸前、鋭い音を立ててカーテンが開かれた。
「……あんた」
闖入者の顔を見たユリは驚愕した。だが、すぐに笑った。
「ふん、やっぱり生きてたんじゃん。死んだなんて、ただの噂だったんだ?」
「死んだわ」
「は? 生きてるじゃん。ほら、触れるし……」
ユリはミツルの手を掴んだ。人肌の温かさを感じる。生きている証拠だ。だが、自分を睨む彼女の顔を見て、ようやく気がついた。
「あんた、誰?」
ユリは掴んでいた手を振り払った。口元にあるほくろがない。ユリが知るあいつではなかった。
「死んだの、あの子。あんたのせいで」
「何、言ってんのよ。あいつが勝手に死んだんでしょ!」
「あんたに殺されたのよ」
「いい加減にして!」
ユリは枕を投げつけた。ミツルに似た彼女の顔に枕が当たった。彼女は怯むことなくベッドに乗り上げ、ユリに馬乗りになった。
「どきなさいよ!」
ユリは手足をジタバタとさせ、彼女をどかそうとした。彼女はユリの首を掴み、隠し持っていたナイフを眼前に突きつけた。ユリは小さく息を呑み、もがくのをやめた。けれど、自分の上に乗っかる彼女を睨みつけるのはやめなかった。
「……アタシを殺す気?」
「なんで、殺したの?」
彼女は抑揚のない声で尋ねた。人肌さえ感じなければ、本当に幽霊かと思うほど正気を失った顔つきだ。いっそ、憎悪を剥き出しにしてくれたら、まだ応戦できる気がした。ユリは彼女の静かな狂気に呑み込まれまいと必死で睨んだ。
「殺して、ないわ」
「殺した自覚がないのね」
ナイフの刃先がガーゼに当たる。ユリは身を固くした。
「あの子はね、自殺するような子じゃないの。追い詰められても、淡々と力を蓄えて、反撃するような、したたかな子なの。知ってるでしょ?」
刃先が強めに押し当てられる。そのまま傷に突き刺すつもりなのかもしれない。「……知ってる」とユリは答えた。
「それなら、話せるわよね? あの日、何があったか」
こいつは知っているんだ、とユリは思った。誰も知らないはずの、ユリとあいつの最後のやりとりを。
「話さない、と言ったら?」
「その顔、二度と人前に晒せなくなるようにズタズタに切り裂いてやる」
殺されるよりも恐ろしい宣告だった。そうなるくらいなら、死んだ方がマシだ。自分は、美しくなければ生きている意味が、価値が、ないのだから。
ユリは掠れた声で「話すわ」と言った。ナイフの刃先は強く押し当てられたままだった。
「あいつと最後に会ったのは、いつも集まってたカラオケボックスよ」
現れたミツルは私服だった。その時、ミツルはすでに学校をやめていた。
呼び出されたのは、ユリひとりだった。不審に思いながら尋ねる。
「今さら何の用? 写真を消去したの、確認したでしょ?」
トイレの便器に顔を突っ込ませ、ひとしきり楽しんだあと、ユリは水浸しになって咳き込むミツルの目前で写真を消去してみせた。バックアップを取ってあったので、次からはそれを使うつもりでいた。
けれど、次に呼び出す前に、ミツルは学校をやめてしまった。いなくなったオモチャに固執する理由はない。ミツルをターゲットにするのはやめた。
だが、逃げられたのは面白くない。腹いせにネットに上げようとしたが、電波が悪い場所にいたためか、うまくアップできなかった。面倒になって、結局アップはせずに放置していた。
ミツルは、ユリたちのことを訴えると言った。最初、ユリは笑い飛ばした。
「訴える? ウチらが何したって言うの? それ、立証できるわけ? できなかったら、あんたの方が脅迫罪かなんかで訴えられるんだよ?」
証拠はあるとミツルは静かに言った。自分が学校から去ることで、ふたたびアオイに矛先が向くのではと不安だった。けれど、自分もアオイも救うには、こうするしかないのだと、静かに、けれど決意を湛えて言った。笑っていたユリはしだいに真顔になった。ミツルの本気を感じ取ったからだ。
「あんた、マジなんだ?」
ユリは不快そうに首を傾げた。本気だとミツルは答えた。
「じゃあ何でそれを今話すわけ? 勝手に訴えればいいじゃん。何が目的なの?」
ミツルはユリに謝罪を求めた。今後アオイをいじめないという確約も欲しいと言った。ユリが謝れば他の二人も追随する。だからまずは、ユリが謝罪してほしいとも。
「何それ」
てっきり慰謝料でも要求されるのかと思った。少々拍子抜けした。そんなことなら、いくらでも口にできる。
「ごめんねー。二度としないから。これでいい?」
ユリは手を合わせ、小首を傾げてみせた。大抵の男はこれで落ちる。ユリの美貌に圧倒され、言いなりになる姿は愉快で、滑稽だ。けれど、ミツルは納得しなかった。
訴えたら、それだけで世間の注目を集めることになる。ユリたちだけでなく、その家族もだ。それでもいいのかとミツルは問うた。
「ふん、最初から訴えるつもりなんでしょ。わざわざ謝罪なんかさせて、上に立ちたいだけのくせに!」
詰め寄るミツルをユリは押しこくった。だが、ミツルはユリの腕を掴み、謝るまで離さないと言った。
自分に楯突く人間は嫌いだ。カッとなったユリは思い切りミツルを突き飛ばした。ミツルは体勢を崩し、テーブルの角に頭を打ちつけた。そのまま床に倒れ込み、動かなくなった。殺してしまったのかとユリは慌てた。
「ちょっと、ふざけてないで起きなさいよ。どうせ演技でしょ?」
ミツルの体を揺さぶる。呼吸はあった。ミツルは生きていた。ほっとしたのも束の間、ユリは怖くなった。さすがに今日の件を訴えられたら勝てる気がしない。ミツルが起きる前にユリは逃げ出した。
それからしばらくして、ミツルが自宅で自殺したらしいと噂で知った。自分のせいじゃないと、ようやく安心できた。それまでの数日間、生きた心地がしなかった。自殺なら、自分のせいじゃない。あいつが勝手に死んだのだ。
「これで終わりよ。わかったでしょ? アタシは殺してないわ」
けれど、彼女は無反応だった。
「ねえ、聞いて……」
ユリは言葉を失った。黙ったままだった彼女は虚ろだった瞳をカッと見開き、ギラギラと憎悪をたぎらせていた。
「あの子はね」
話し始めた彼女の声は怒りで震えていた。
「あんたとのやりとりをすべて録音していた。あんたがあの子を突き飛ばした瞬間も残っている」
「……」
「あの子は、しばらく生きていた。自宅に戻って、そこで倒れたの。倒れたのは階段の上だったわ。そこから落ちて死んだの。あんたが突き飛ばし、頭を打ったせいでね」
「言いがかりよ! 音声データだけじゃ証拠になんないわ!」
「あんたが殺したの」
「違うってば!」
「次はあんたの番なの! だから死ね! あの二人みたいに!」
彼女はナイフを振り上げた。ユリはベッド脇の机に置かれた花瓶を手に取り、投げつけた。彼女は怯み、わずかに後ろに引いた。その隙を突いて彼女を突き飛ばす。
彼女はベッドから転がり落ちた。その拍子に彼女の手からナイフが離れる。ユリはナイフを奪い取った。
「死ぬのはあんたよ!」
ユリは起き上がった彼女の腹を刺した。彼女がユリに覆い被さるように倒れ込んでくる。その体を払いのけ、ナイフを抜く。彼女は崩れ落ち、動かなくなった。
ああ、あいつもこうしておけばよかった。そうしたら、醜くならずに済んだのに。
血が滴るナイフを握りしめ、ユリは虚ろな笑い声を上げた。
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