いたずらな風 春うらら

5/5
前へ
/7ページ
次へ
 時計塔広場で人々が優雅にダンスを楽しんでいる間、犬と女性は走り続けていた。  大通りや坂道を走って走って、いつの間にか犬と女性は、元いた市場の近くへ来ていた。  犬は、市場へと通じる小路に入った。  女性が小路を覗き込むと、犬は向こうの通りに出たところだった。  一瞬、犬が女性を振り返った。  が、すぐに通りの右側へと駆けていってしまう。 「待って!」  女性が小路を抜けて右へ曲がると、犬は大人しく座っていた。  背の高い細身の男性に頭を撫でられている。   「あ」  女性は男性の顔を見て、驚きと歓喜の声を上げた。  彼は彼女の恋人だった。 「お」  男性は女性に気づいて眉を上げた。 「探したよ」  男性は左手に女性の赤いマフラーを持ち、右手はコートのポケットへ入れ、女性に近づいた。 「これ、忘れてったろ」  そう言って、男性は右手を掲げた。  骨ばった指の間には、ストールピンが握られている。 「あっ」 「あわてんぼうさん」  照れ笑いをする女性に、男性は笑って言った。  女性は男性に抱きついた。  ふたりの足元で、犬がしっぽを振っている。  ふわり。  風が、沈丁花(じんちょうげ)の甘い香りを運んできた。 「ん? いい匂いがする」 「ほんとね、春の花の香りだわ」  ゴーン、ゴーン。  時計塔の鐘が鳴った。 「まずい、仕事に行かないと」 「待って、朝食は? フルーツサンドが無事ならいいのだけれど」  女性は眉を下げながらフルーツサンドが入っている四角いかごバッグを開いた。 「あ」 「お」  二人は顔を見合せた。  フルーツサンドは、きちっと形を保っていた。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加