第一章(一)

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第一章(一)

 きょうも一日、猛暑日になるでしょう――  朝のテレビ番組で、気象予報士がそう言っていたのを思い出した小野町晶は、足を止めた。そして鬱蒼とした森の木々を見上げて、大きく溜息をつく。  今頃あの発掘現場では、学生たちが凶器のような陽射しを浴びながら、黙々と作業に取り組んでいるのだろう。昨日現地入りしてすぐ作業に取りかかった小野町自身も、定期的に日陰に入って休憩を入れたにも拘らず、痛々しいほど腕や顔が真っ赤になっている。  しかし、そこからあまり離れていないこの場所。ここはまるで別世界だった。険しい山中ではあるが、吹き抜ける風に体温が奪われるのが心地よいのだ。ここなら長袖のシャツでちょうどいいぐらいだ。  バイトの学生たちには申し訳ないことをした。私用で現場を離れて作業を丸投げしてしまったのだから。バイト料を上乗せしないと恨まれそうだ。  そんな事を考えながら、小野町は腕時計に目を向けた。もうすぐ昼時。宿を出てから3時間ほどが経過している。 「この辺りで休憩にするか……」  そう呟くとリュックを足元に置き、地中からうねるようにして這い出た巨大な木の根に腰を下ろした。そして胸のポケットから煙草とライター、携帯の灰皿を取り出す。流れ作業のように煙草に火を点け大きく吸い込むと、上を向いて煙を吐いた。  煙はゆっくりと広がりながら右の方へ流されていく。  やわらかい風が撫でる木々の葉や草の音。長閑な時間だ。小野町はしばらくの間、生い茂る木の葉を眺めていたが、短くなった煙草を灰皿に押し付けると、リュックを手繰り寄せ、中に手を突っ込んだ。中から取り出したのは、方位磁石とGPS受信機、それと一通の封筒だった。  小野町は方位磁石を根の上に置いた。しかしすぐに顔を顰める。北を示すはずの針が、くるくると回り定まる様子がないからだ。  青木ヶ原の樹海のように、ここでも方位磁石は通用しないようだ。  今度はGPS受信機を手に取り電源を入れた。今ではスマホのアプリにもあるほど身近な存在だが、小野町が手にしたそれはスマホ五台分くらいの厚さがある旧式だ。だが、高性能な製品でもある。  しかし……。小野町は受信機の液晶画面を見て口をへの字に曲げた。GPS衛星が1機も受信できていなかったからだ。 「故障か?」  納得がいかないといった表情で、高く密集している巨木を恨めしそうに睨んだ。しかしすぐに意味をなさない行為だと悟ったのか、大きくため息をつき首を振る。 「まあいい」  そう言ってリュックに方位磁石とGPS受信機を戻す。  そして二本目の煙草に火を点けると、残った封筒を手に取った。  それは先月亡くなった父親の書斎から見つけたものだ。  しかも、金庫の中からだ。  封筒の差出人は中里善吉。父親の古い友人で歴史学者としても有名な人物だ。小野町とも面識がある。  中身は手書きの地図が一枚と、古いモノクロ写真が三枚入っていた。  小野町は三枚の写真を取り出すと、地図と封書は脇に置いた。  一枚目の写真を見る。  それはどこかの集落でそこの住人を写したものだった。そしてこの集落こそ、これから小野町が向かおうとしている場所でもある。  ただし正確には元集落、今はもう廃村の可能性が高い。それはこの写真がモノクロだから、というだけではない。写真に写る家屋が明らかに現在のものではないからだ。  その写真には四人の老人が写っていた。解像度が悪いので断言できないが、暑い時期だったのだろう。みんな薄手の着物を身に纏っている。  その老人たち全員が警戒するような目を向けているのも気になるが、小野町が一番気になったのは、背後に写り込んだ茅葺き屋根の質素な家並だった。これはどう見ても戦前、いや、もしかしたら明治かそれ以前に建てられたとしか思えなかった。  もしこんな集落が現存するなら、考古学を長年やってきた自分が知らない筈がない。  二枚目の写真を見た。  豚か猪を、たき火の上で丸焼きにしている写真だ。そのたき火を囲む老人たち。全部で九人が写っているが、一枚目に比べると、みんなの表情からは警戒心がすっかり消えているのが分かる。  他にも変化が見て取れた。それはみんなが厚手の羽織を身に付けていることだった。つまりそれだけ時間が経過したのだろう。  民俗学者の中には、何カ月も調査対象となる場所に滞在する者がいる。しかし考古学者だった父からそんな話は聞いたことはない。滞在するとしたら中里先生だろう。そうやって長い時間をかけて彼らに受け入れられたのだ。  そして三枚目の写真。  これは先の二枚とは明らかに毛色が異なる写真だった。  その被写体は、十五、六歳と思われる巫女装束の少女だった。巨木の前にある小さな祠の横で、憂い気な表情を向けている。その背後には神社らしい建物の一部も映りこんでいる。少女の容姿はまだ幼いながらも色気があり、均整のとれた顔立ちは、原宿や渋谷といった都会の雑踏にいても際立つほどの美少女だ。  しかし何故だか彼女のその両手は、肘から指先までが包帯で巻かれていた。  裏返すと三枚目のその写真にだけ『墓守の少女、あかてこ』と書かれていた。それは中里先生の筆跡で間違いない。  どこかで入手した古い写真に悪戯書きでもしたのか? 最初はそう思った。  しかし、あの中里先生がそんなことをするとは思えないし、ましてや父親がそんな写真を金庫に保管する理由も分からない。 ――墓守の少女、あかてこ――  その文字を眺めながら、小野町は一昨日の晩のことを回想した。  発掘調査に来ていた小野町は、いつものように街中の飲食店で一人夕飯を取っていた。  すると、近くのテーブル席にいた高齢の三人組の会話から「あかてこ」というキーワードが聞こえてきたのだ。  好奇心が抑えられなかった小野町は、すぐ彼らに「あかてこ」について尋ねた。  すると「あかてこ」とは、昔からこの地に伝わる逸話に出てくる少女のことで、地元のお年寄りなら大抵は知っているということが分かった。  しかも今、小野町が率いる発掘調査隊が作業をしている現場の近くに「あかてこ」と所縁のある集落があったらしい、という話まで聞くことが出来た。  発掘調査が決まったとき、偶然にもその場所は中里先生の地元だった。先生が歴史の勉強会をボランティアで行なっている、ということは知っていたので、挨拶ついでに写真についても聞いてみようと考えていた。  しかし、機材や人材の調整といった雑務に追われて、その機会が得られなかったのだ。  それなら、土産話として写真の場所を先に見ておこう。  それが集落を目指している理由であった。  手書きの地図を開いた。これも中里先生の直筆だ。それによれば、このまま山道を進めば、目的地まであと一時間も掛からないだろう。目印は二本の木の柱。大きさまでは書かれていないが、今でもあるなら、多分見付けられるだろう。  携帯灰皿に煙草を押し付けると、小野町は立ち上がった。
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