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第一章(三)
「失礼しまーす」
研究室のドアを開けると、机で作業をしていた橋田凪さんが手を止めて顔を上げた。
「ふたりとも来たわね。おつかれ」
「お疲れ様です。凪さん」
「あれ、すずめちゃん。学校から直で?」
「はい。今は部活もないし、早く下校できましたので」
誇らしげにVサインを出す。ちなみに私は文芸部だが活動は週一だ。
「そしたら危うく連れ去られそうになっちゃってね」
薫さんがやれやれと言う表情で言った。
「え? 連れ去られそうに」
驚く凪さんに薫さんが悪乗りした。
「そうよ。場合によっては今頃、すずめちゃんはここに居なかったかも」
「そ、そんなぁ。ちょっと引っ張られそうになっただけじゃないですかぁ」
「いやいや、ちょっとなんてレベルじゃなかったでしょ。ガチだったわよ」
「うう……」
返す言葉がない。
「ほう。それは興味深い話だな」
声の主にみんなの視線が向く。白衣を纏い、長身でスタイルのいい男性。早乙女涼真教授だ。
「あっ、教授。お疲れ様です」
「お疲れ様です」
二人は行儀よく挨拶をする。
「涼真、人を呼んでおいて自分が一番遅いってどういうことよ」
「こら、すずめ。年上の者を呼び捨てにするな。少しは二人を見習いなさい」
「ええー。そんなこと言ってもさ、涼真は涼真じゃん」
物心ついたときからよく顔を合わせていた親戚だ。いまさら呼び方を変える気はない。
それに涼真の生活能力の低さをこの二人は知らない。脱いだものは脱ぎっぱなし。ゴミはゴミ箱に入れない。整理整頓という概念が抜け落ちているとしか思えない人物なのだ。みんなモデルの様なスタイルとルックスに騙されている。
「まったく。で、連れ去られそうになった、というのは?」
私はあの公園での出来事を涼真に話した。
「おいおい。本当に振袖を着た少女の姿が見えたのか?」
「そうよ」
やや興奮気味の涼真は、薫さんに視線を向けた。
「いいえ。私はただ赤黒い影に、すずめちゃんが覆われているところしか見ていません」
すると涼真は、何か考え込むような仕種をした。
「なるほど。あの商店街では不審な影の目撃情報が寄せられていたから、薫に調査してもらっていたんだが……影の正体は振り袖姿の少女だった。実に興味深い話だな。他に何か分かったか?」
「ほかに目撃情報は得られませんでしたけれど……」
薫さんはそこで言葉を切って私を見た。
「まあ、なによりその影に引っ張られかけた張本人がいることですし、あとで詳細な聞き取りをしたいと思います」
そう言って悪戯っぽく笑う。
私は自分を指さして、マジっすか? と呟いた。
「そうか。じゃあ、俺はあとで現場に行ってみるか」
好奇心いっぱいの目をした涼真に私は言った。
「それはそうと涼真。私に女の子の姿が見えたのって、実験のせいで脳に副作用が出ているんじゃないの?」
すると、いかにも残念そうにため息をついた涼真が言った。
「はぁ。すずめは今一つ前向きな発想力というのが欠けているな」
「は? わけ分かんない。どういうことよ?」
「その現場には、霊感のある薫くんも居合わせたのだろ?」
本人は非常に弱い霊感だと言っているが事実だ。
「それがどうかしたの?」
「それなら間違いなく霊障の類だろう。そして霊感ゼロだったすずめが、見えるようになった。つまりレベルゼロだったすずめが、実験でレベルアップをして〝見える人〟のスキルを得た。そういうことじゃないのか?」
開いた口がふさがらない。
「なにそのゲームみたいな話。こっちは真面目に聞いているんですけど?」
「じゃあ言い方を変えよう。薫くんも目撃した霊障がすずめにも視えたということは、少なくても幻覚の類ではない。それは理解できるな?」
「うん……」
「つまりすずめは霊感がゼロではなくなった、ということだ。脳が順応、いや進化した結果と考えて間違いないだろ」
「進化って……」
「喜べ。そんなレベルアップしたすずめにピッタリのプレゼントがある」
胡散臭い詐欺師に言い包められた気分だ。しかも涼真の顔がニヤケている。もう嫌な予感しかしない。
「大幅に改良した〝マスパダス〟が完成したんだ。さっそく試してみようと思う」
「……まさか、急な仕事って?」
「そう。新作の試運転だ」
見た目はモデルのようなイケメンでも四十のオジサンだ。それが子供のように目を輝かせていると、無性に腹が立ってきた。
「だったらそう言いなさいよ。急な仕事って言うから急いで来たのに!」
「これだって立派な仕事だろ」
「ぐっ……。だ、だったら、特別ボーナス、頂きますからね!」
「はぁ……」
さっきより大きな溜息だ。
「なぁ、すずめ。すずめは既に、人類で初めて心霊現象を観測できるシステムの使用者という貴重な体験をしているじゃないか。これ自体がボーナスだとは思わないのか?」
「私はゲーム機と勘違いしただけよ。まあ、本当にゲームっぽかったから面白いとは思ったけれど……」
霊障を科学的に解析する目的で開発されたマスパダス。それは、複合現実型霊的存在検出解析システム、Mixed Reality Type Spiritual Presence Detection Analysis System のことで、略して〝MSPDS(マスパダス)〟と呼んでいる。
そのマスパダスだが、ホストコンピューターと4機のドローン、そしてファントムグラスと呼ばれる眼鏡で一つのシステムを構築している。
ただしそれは見た目だけの構成だ。実はさらにもう一つ、なくてはならない重要な要素が組み込まれていた。それは使用者の脳だ。解析処理の演算を使用者の脳を使って行っているのだ。よってこの四つで一つのシステムを構築していることになる。
目の前のテーブルに、改良されたというマスパダスのディバイスが並べられた。一見では普通のメガネと変わらないファントムグラスと、1機のドローンだ。ホストコンピューターは教授の机の横に鎮座している。しかし……。
「ねえ、これっていつものディバイスじゃん」
これまでと比べて変わった様子はないようだが……いや、なんか少し雰囲気が違う?
「たしかに見た目はあまり変わってない。でもドローンをよく見てみろ」
正直言って機械のことは良く分からない。とりあえず思い付いたことを言ってみた。
「何か付いた?」
「正解。それは消音装置よ」
凪さんが答えてくれた。
「消音装置?」
「そう。だからほら。これまでのようなプロペラの音がしないでしょ?」
そう言って凪さんは上を指さした。つられて視線を上に向けると、
「うわ」
いつの間にか私の頭上に、三機のドローンがホバリングしていたのだ。
「全然気付きませんでした」
「でしょう? けっこう自信作なのよ」
すると涼真がドヤ顔で割り込んできた。
「それだけじゃないぞ。これまでは環境磁場の観測だけだったが、今回はその先の世界が新しく追加されたんだ。さっそく使ってみたいだろ? ん? 使ってみるか?」
「せ、世界が追加? う、うん」
涼真に上手く乗せられてしまったと反省したが、すでに私はファントムグラスを握ってしまっていた。
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