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第一章(五)
夕暮れ色に染まった誰もいない商店街を一人で歩いていた。
すると短い電子音が鳴った。
「え? なに?」
《驚かせちゃったね、ゴメン。初期設定が終了したのさ》
「あ、そうだったわね。で、何を設定したの?」
《システムとすずめの脳が無理なくリンクできるよう、脳波を測定していたんだ。今までのと違って、今回からは常時システムと脳がリンクされるようになったから。それとファントムグラスの視覚補正もね。気分が悪くなったとか頭が痛いとかない?》
「へ、平気だけど……そんなことをやってたんだ」
《ごめんね。事前に話しちゃうと意識したり緊張したりして、脳波が正確に測れないんだよ。だから研究室からずっと測定させてもらっていた》
「そうなんだ」
《うん。あっ、それとね、平常心を失って脳波が一定以上乱れたりすると、安全装置が働いてリンクが切れちゃうから》
「つまり常に平常心ってことね? 大丈夫かなぁ」
これまでの実験では、事件や事故現場に足を運び、そこで環境磁場を測定してデータを収集するのが主な仕事だった。ファントムグラスを着用し、現場を数時間うろうろ歩き回ったり、ときには現場近くにテントを張って一晩過ごしたり。
それでも心を乱すようなことはなく、冷静にやって来たつもりだったが、今回はVR的視覚機能で霊障が直接見れるのだという。脳への負担も心配だが、そんなものを見せられて平常心でいられるかどうか不安だ。
《それにしても、どこの店もシャッターが閉まっているね?》
私の不安をよそに、アーサーの口調はのんびりとしたものだった。
「そうね。大型店の進出でもともと減少していた客足が、コロナの影響で途絶えちゃったからね」
《そっかぁ。もっとたくさんの人を観察したかったのになぁ。研究室を出てからまだ三人しかすれ違っていないし》
「え? 数えていたの?」
《周囲の状況は常に観測対象さ》
なるほど。確かに人とすれ違った気はするが、人数までは覚えていなかった。
ふと上空を見上げた。私を中心に一定の高度を保ったまま飛行するドローンが目に留まる。それからファントムグラスに触れてみた。
《どうかした? すずめ》
「あ、ううん。このファントムグラス。見た目はあまり変わってないと思ったけれど、やっぱり少し重くなってる」
《そうだよ。VR機能を追加したことや、バッテリーも改良したからね》
「やっぱり」
《じゃあそろそろ、新しいシステムの使い方を教えるね》
「うん、お願い」
《あ、そうそう。すずめの声は、ファントムグラスに振動が伝わる程度なら拾えるから、周りに人がいても大丈夫だよ。僕の声はすずめの耳小骨に振動で直接伝えるから、外への音漏れは心配ないよ》
「そうなんだ」
《じゃあ始めるね。サーチオンって言ってみようか》
「え? そう言えばいいの?」
《そう。言ってごらん》
周囲に誰もいないことを確認してから呟いた。
「サーチ、オン」
ピピッと電子音が鳴り、画面上には《Searching》の文字が現れ点滅した。さらに上下左右に動きながら大きさを変えるサークルも現れた。
「サークルが出てきて観測を開始したのね?」
《そう。そこは以前と一緒。検索範囲は広がったけれどね》
たしか半径二十メートルから三十メートルに広がったと言っていたが、環境磁場の変化を探すサークルの動きは、以前より格段にスムーズだ。ゲームのようで面白いかも。
しかし数秒で《No Search》という表示とともにサークルは消えた。
《なにも見つからなかったみたいだね。じゃあ、その先の路地を右に曲がって公園に向かってみようか?》
「了解……って、どうしてその先に公園があるって分かるの? アーサー、外に出るのは初めてでしょ?」
《ネットにアクセスして周辺のMAPは取得済みだからさ》
「へ、へえ。さすがAIだね」
《それほどでも~》
照れるような口調。これも涼真の仕業か。
でも少しワクワクしている。言われた通り右折すると、その先に公園があった。大きな池を囲うように芝生が広がり、奥の方には小高い丘や雑木林もある。池の周りの遊歩道には所々に街灯とベンチがあり、数組のカップルが寄り添い囁きあっている。二人だけの世界にいる彼らは、私のことなど眼中にないようだ。
《よし。ここら辺でもう一回、サーチをかけてみてようか?》
「オッケー」
何組かのカップルがいるが、それなりに距離がある。
「サーチ、オン」
先ほどと同様に、ピピッという電子音の後で《Searching》の文字が現れ点滅し、サークルが表示された。
《周囲を見渡すようにすれば、それだけ検索処理が早くなるよ》
「そうなの?」
言われた通り辺りを見渡す。遊歩道やカップルのいるベンチ、そして大きな池。サークルは、大きさを変えながら慌ただしく上下左右に動いている。
しかし、ある方向に視線が向いたときだった。
ピピッという短い電子音に続いて《Catch》の文字が現れた。サークルは対岸の雑木林に固定されている。
「あ、アーサー、これって!」
《すずめ、落ち着いて。平常心を忘れないで。今のはまだ環境磁場に不自然な変化が観測されただけだから》
「でもそれって……」
緊張で一気に鼓動が早くなる。
《じゃあゆっくりと、そのサークルが示す雑木林に近付いてみようか?》
「え? ち、近付かなきゃだめ? ここからでも良くない?」
《この距離だとちょっと遠いんだよね。まだ霊障と決まった訳じゃないけれど、空間に何らかの変化があるのは確かなんだ。だからなるべく近くで観測したい。その方が測定効率も良くなるから。すずめ、頑張って》
「頑張ってと言われてもね……」
効率を優先するのはやはりAIか。人の気持ちも考慮するようなプログラムに変えてもらいたい。実際に遭遇するかも、と考えたら正直言って怖くなる。
《あれ? 心拍数が上がったよ。緊張してる?》
「そりゃあ、緊張するでしょ!」
少しヤケになったが、深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。まだ霊障と決まったわけではない。それに、いままでだってやって来たことだ。
大丈夫。自分にそう言い聞かせた。そして池を迂回するように遊歩道を進む。
対岸に来た。こっち側の遊歩道沿いにあるベンチには、誰も座っていない。雑木林に近付くにつれ、なんだか余計に心細くなる。
こんな場所で、環境磁場に何らかの変化があったということは……。
ピコッ。
「ひっ、なっ、なに?」
電子音と共に、急に視野が明るくなった。
《暗視モードに切り替わっただけよ。ほら良く見えるだろ? よし、もういいかな。じゃあ今度はアナライズ、オンだよ』
「う、うん」
一呼吸入れてから小声で唱える。
「アナライズ、オン」
緊張のせいで声が上ずってしまったが、システムは認識してくれたようだ。ファントムグラスに現れた文字が《Analyze》に変わる。
同時に頭がキリキリと痛み始める。これは……確かに以前よりもきつい。
《脳に割り当てる演算領域が以前より多くなっているから、少し頭が痛くなるけれど、心配いらなからね》
せっかく慣れたと思っていたのに、これは不快な痛みだ。
さらに十秒ほど経ったとき、電子音に続いて《regret》という青い文字が現れた。
「リグレット?」
《心残りとか後悔って言う意味だよ。詳しく説明するから、とりあえずそこの空いているベンチにでも座ろうか》
言われるがまま、すぐ近くのベンチに座る。
《まず結論から先に言うと、解析には成功したよ。おめでとう》
「え? そうなの? なんかあっさりだね」
《だから心配ないって言ったでしょ? じゃあ説明を続けるよ。色付きの文字が現れたのは、霊障の解析が済んだ証拠。霊障を感情として色分けしたのさ》
「へえ、他にも色があるのね?」
《うん。全部で七色あるよ》
「七色も!」
《もし黒色でGrifという文字が現れたら、それは怨霊だから気を付けてね》
「怨霊っ!」
思わず声が大きくなった。慌てて自分の口をふさぐ。
《他にも紫色でJealousyだったら嫉妬。赤色でAngerだったら怒り。黄色でTerrifiedだったら恐怖。緑でGreedだと強欲を意味するんだ。あとは灰色でRestfulだけれど、これは放っておいても成仏する。だから無視していいよ》
「霊障にそんな感情があったんだ」
《そうだよ。これまでに集めたデータが役に立った訳さ》
「それで、これは霊障で決定なのね?」
《そうだよ。よかったね。試験運転のつもりだったのに、いきなり遭遇するなんて》
「なんか実感ないけれど……」
《じゃあ、さっきの木を見てみようか》
それがあまりにも自然な口調だったので、私も無防備に視線を向けてしまった。
「ひっ!」
なんとも情けない声が出た。また両手で口を押さえる。
視線を向けた先の大きな木。そこで明らかに人の形をした青い影を見てしまったのだ。手や足、胴体に頭部。そこには体の輪郭がハッキリと映し出されていた。
全身の毛穴という毛穴が開き、総毛立つ感覚に襲われた。そして思わず顔をそむけてしまった。
《ちょ、ちょっと、すずめ。早く視線を戻してもっとよく見せてよ》
「め、めちゃくちゃ怖いんですけど」
《大丈夫だって。青はリグレット。心残りとか後悔だって言ったでしょ? 祟られたりはしないから》
「いや、そう言う問題じゃなくて!」
もしかして今までもこうだったのか? これまではVR機能なんて付いていなかったから、数値の変動ぐらいで何も見ずに済んでいたのか。
《いいから言うとおりにして。これは貴重なデータになるんだから》
「人の気もしらないで……」
AIにはもっと人の気持ちを学習してもらいたい。
とは言え、研究室では間違いなく涼真も同じ映像を見ているはずだ。もしここで逃げ出したりしたら、後で何を言われるか分からない。そんな諦めの気持ちに背中を押され、恐る恐る青い影に視線を向ける。
青い影が視界に入った途端、悲鳴を上げたい気持ちを必死に堪えた。いま悲鳴をあげたら、口から魂が飛び出してしまうかもしれない。
落ち着け。影は青色。だから祟られたり呪われたりはしない……はずだ。
よく見るとその青い人影は、私に背を向けて上を向いて立っているようだった。
何を見ているのだろう?
私もその先を追って見たが、木の枝葉しか見当たらない。木に何か引っかけたのか?
青い影はそのままどこかへ移動する気配もなく、ただ佇んで上を見ているだけだ。
それにしても意外と背が高い。いや、意外どころじゃなく、かなりの長身だ。いや、ちょっと高すぎじゃ……。
「!」
次の瞬間、私は脱兎のごとくその場から逃げ出した。
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