第一章(八)

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第一章(八)

 市役所の福祉課に務める久世原保は、車の停車と同時に目を通し終えた書類をダッシュボードの上に放り投げた。そして溜め息と共に愚痴をこぼす。 「あの偏屈爺さんの家か」  すると、今年配属されたばかりの新人の佐藤隆が、エンジンを切ってシートベルトを外しながら言った。 「自分、あの人苦手なんすよね」 「安心しろ。みんな苦手だ」  二人は今、市内に住む独居老人の健康調査を行っている最中だった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、一人暮らしの高齢者が感染してそのまま死亡するというケースが起きないよう、巡回していたのだ。 「まあ、愚痴を言っても仕方ない。さっさと済ませるぞ」 「はい」  車から降りた二人は、目の前の古い一軒家に向かった。 「吉岡さーん。吉岡伝次さーん。市役所の者でーす。おじゃましますよぉ?」  建て付けの悪い引き戸を力任せに人が通れる幅に開き、二人は三和土に上がった。その途端、鉄分を含んだ生臭い匂いに噎せ返る。慌てて二人ともハンカチを取り出し口に当てた。 「く、久世原さん、これってなんですか?」  佐藤の問いかけに久世原は顔を顰め答える。 「なんか血の匂いに似ているが……まさかな。よ、吉岡さーん?」  しかし返事はない。怪訝な表情で互いを見た二人は、靴を脱いでゆっくりと上がった。 「吉岡さーん?」  ゴミが落ちてる狭い廊下を、怯えたような表情で二人は奥に進む。そして突き当りのリビングに着いたとき、同時に悲鳴を上げて、その場に尻もちをついた。  そこには変わり果てた姿の吉岡伝次がいたからだ。  警察車両が列をなす住宅地の一角。騒ぎを聞き付けた野次馬も集まっている。その元凶となった住宅の裏庭では、八戸警察署の中里警部と鑑識課の瀬尾が煙草をふかしていた。 「しかし、ひでえ殺しだな」  中里警部が瀬尾に向かって言った。 「ああ。犯人は相当イカれてやがる」  煙と共に溜め息をつく瀬尾。中里は頭を搔きむしりながら苛立ちを表した。 「まったく。ここしばらく事件なんて起こっちゃいなかったってのに……」  吉岡伝次は今年で八十五才になる独居老人だ。良く言えば快活なご老人。悪く言えばトラブルメーカーという人物だった。市の担当職員が訪問すれば必ずと言っていい程、行政サービスのあり方に文句を言ってくる。  そんな吉岡が、自宅のリビングで逆さ吊にされ殺されていたのだ。しかもその両腕は、肘から先が鋭利な刃物で切断されていて、床一面に血の海が広がっている。 「犯人は何がしたかったんだ?」  中里の呟きに瀬尾が答える。 「まるで血抜きだな……」  ふと中里が向けた視線に瀬尾もつられた。  視線の先にあるのは、引き戸が開け放たれたリビングだ。そしてフラッシュが焚かれる度に、血の気を失った蒼白の顔が、逆さに浮かび上がって見えた。  所轄の警察署では、県警本部から来た管理官を筆頭に、吉岡伝次殺害事件の捜査本部が設けられた。集められた捜査員の前で瀬尾が検死の結果を報告する。 「被害者の死亡推定時刻は昨夜の十時頃。死因は両腕を切断されたことによる出血死。状況から犯人は、被害者の両腕を切断してから逆さ吊にしたと推測されます。切断された腕は、被害者宅の庭先に埋めれられていました」  会議室が騒然とするなか、中里が挙手した。 「切断してから吊るした、ということで間違いないと?」 「はい。現場に残された血痕や血溜まりから間違いないでしょう」 「だとしたら腕を切り落とした理由が分からないな。しかも、すぐに見付かる庭に埋めるだなんて」  中里の言葉に誰もが沈黙する中、咳払いをした管理官が捜査員に向けて告げた。 「まずは被害者の周辺を徹底的に調査しろ。生前、近所でトラブルを起こしていたという情報がある。どんな些細なトラブルでも見逃すな。これは明らかに猟奇殺人だ。心して掛かれ」 「はい」  一斉に捜査員たちが会議室を後にする。その中には浮かない顔の中里もいた。  猟奇殺人……そんな言葉が彼の頭をぐるぐると回っていた。
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