5人が本棚に入れています
本棚に追加
/37ページ
第一章(八)
市役所の福祉課に務める久世原保は、車の停車と同時に目を通し終えた書類をダッシュボードの上に放り投げた。そして溜め息と共に愚痴をこぼす。
「あの偏屈爺さんの家か」
すると、今年配属されたばかりの新人の佐藤隆が、エンジンを切ってシートベルトを外しながら言った。
「自分、あの人苦手なんすよね」
「安心しろ。みんな苦手だ」
二人は今、市内に住む独居老人の健康調査を行っている最中だった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、一人暮らしの高齢者が感染してそのまま死亡するというケースが起きないよう、巡回していたのだ。
「まあ、愚痴を言っても仕方ない。さっさと済ませるぞ」
「はい」
車から降りた二人は、目の前の古い一軒家に向かった。
「吉岡さーん。吉岡伝次さーん。市役所の者でーす。おじゃましますよぉ?」
建て付けの悪い引き戸を力任せに人が通れる幅に開き、二人は三和土に上がった。その途端、鉄分を含んだ生臭い匂いに噎せ返る。慌てて二人ともハンカチを取り出し口に当てた。
「く、久世原さん、これってなんですか?」
佐藤の問いかけに久世原は顔を顰め答える。
「なんか血の匂いに似ているが……まさかな。よ、吉岡さーん?」
しかし返事はない。怪訝な表情で互いを見た二人は、靴を脱いでゆっくりと上がった。
「吉岡さーん?」
ゴミが落ちてる狭い廊下を、怯えたような表情で二人は奥に進む。そして突き当りのリビングに着いたとき、同時に悲鳴を上げて、その場に尻もちをついた。
そこには変わり果てた姿の吉岡伝次がいたからだ。
警察車両が列をなす住宅地の一角。騒ぎを聞き付けた野次馬も集まっている。その元凶となった住宅の裏庭では、八戸警察署の中里警部と鑑識課の瀬尾が煙草をふかしていた。
「しかし、ひでえ殺しだな」
中里警部が瀬尾に向かって言った。
「ああ。犯人は相当イカれてやがる」
煙と共に溜め息をつく瀬尾。中里は頭を搔きむしりながら苛立ちを表した。
「まったく。ここしばらく事件なんて起こっちゃいなかったってのに……」
吉岡伝次は今年で八十五才になる独居老人だ。良く言えば快活なご老人。悪く言えばトラブルメーカーという人物だった。市の担当職員が訪問すれば必ずと言っていい程、行政サービスのあり方に文句を言ってくる。
そんな吉岡が、自宅のリビングで逆さ吊にされ殺されていたのだ。しかもその両腕は、肘から先が鋭利な刃物で切断されていて、床一面に血の海が広がっている。
「犯人は何がしたかったんだ?」
中里の呟きに瀬尾が答える。
「まるで血抜きだな……」
ふと中里が向けた視線に瀬尾もつられた。
視線の先にあるのは、引き戸が開け放たれたリビングだ。そしてフラッシュが焚かれる度に、血の気を失った蒼白の顔が、逆さに浮かび上がって見えた。
所轄の警察署では、県警本部から来た管理官を筆頭に、吉岡伝次殺害事件の捜査本部が設けられた。集められた捜査員の前で瀬尾が検死の結果を報告する。
「被害者の死亡推定時刻は昨夜の十時頃。死因は両腕を切断されたことによる出血死。状況から犯人は、被害者の両腕を切断してから逆さ吊にしたと推測されます。切断された腕は、被害者宅の庭先に埋めれられていました」
会議室が騒然とするなか、中里が挙手した。
「切断してから吊るした、ということで間違いないと?」
「はい。現場に残された血痕や血溜まりから間違いないでしょう」
「だとしたら腕を切り落とした理由が分からないな。しかも、すぐに見付かる庭に埋めるだなんて」
中里の言葉に誰もが沈黙する中、咳払いをした管理官が捜査員に向けて告げた。
「まずは被害者の周辺を徹底的に調査しろ。生前、近所でトラブルを起こしていたという情報がある。どんな些細なトラブルでも見逃すな。これは明らかに猟奇殺人だ。心して掛かれ」
「はい」
一斉に捜査員たちが会議室を後にする。その中には浮かない顔の中里もいた。
猟奇殺人……そんな言葉が彼の頭をぐるぐると回っていた。
最初のコメントを投稿しよう!