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「やっぱりもう少し、整えれば良かったかな」
私は髪先を少し持ち上げてみた。月明かりに照らされ黒く光ったそれは、ところどころ枝毛になっている。
「いまさら気にしたって、しょうがないか」
はらりと髪をなびかせてから、ふと思い立ち、頬を横にぐっと引っ張り「い」と発音するような顔をする。
その次は思い切りすぼめて、「う」だ。こうして大げさに動かすことで、表情筋の調子を確認する。今日は思い通りに動く。
となれば、今度は足のコンディションを確認する番だ。ぐっぐっ、と大きく屈伸する。そうすると、下半身が仕事の時間だと目覚めてくれる。こちらも問題なし。
さらりと長い黒髪、相手の望む表情を作れる顔、そして瞬発力勝負の足。これらが、私の武器だった。
髪の状態に少しだけ不安があるけれど、他の部分と総合して考えればおおむね状態は良好だった。……あとは、待ち人が来てくれるか否か。
風にそよぐ枝や葉の音の中に、別の音が聞こえないだろうか。注意深く耳を澄ます。
すると、私の耳は車のエンジン音を捉えた。
近頃の車のエンジンはとても静かで、きちんと備えていないと聞き逃すことが多々ある。……少し前の車ならこんなことは無かったろうに、技術の進歩というものは恐ろしい。
雨音にすら負けるような音ばかりで、実際、私は近付く車に気付かず、慌てて準備を始めたことが何度もあった。
白い服を整えて、準備をする。
このエンジン音は、峠を下ってきている車のものだ。……下りの車はいい。上っている車に比べて、停止する位置が少しだけ遠くなるからだ。
私は「間」というものを大事にしているから、すぐにブレーキがかかるようでは雰囲気が出ない。
できるなら、二十メートルから三十メートル程度進んだところで止まってくれるのが望ましい。
エンジン音がだんたんと大きくなり、ヘッドライトの光が木々の間に見えた。
……間もなくだ。
私は歩み出て、車道の少し外側に立つ。黒く長い髪を整えて……いよいよ、その時が訪れる。
ヘッドライトの眩しい光に目が眩む。
私はできる限りの笑顔でその光を迎えた。
目の前の道はゆるやかなカーブになっているから、私が木々の間に見えるのはほんの少しの間だ。
ヘッドライトが曲がっていき、しばらく行ったところでブレーキランプの赤い光が目に入ると、私はふぅ、と息を吐く。
そして重心を低くし、力強く地面を蹴った。
月明りとブレーキランプに照らされながら、私は――走り出す。
* * *
「お、おい。今の……」
「……マジ?」
それを見た時、ハンドルを握る男はブレーキをかけた。
ちょうどカーブの出口付近でアクセルを踏み直した直後だったから、停止するまでには少し時間がかかった。その間に、車に乗っていた二人は自分たちが見たものを思い返す。
長い黒髪をだらんと垂らした、白装束の女――。
運転席の男と、助手席の女は、後方を振り返った。先ほど見たものは何かの見間違いだろうと、そう思いながら。
バン!
車体を震わす大きな音に、二人は文字通り飛び上がる。
そして不幸にも、二人とも後ろを気にしていたから……見てしまった。
バックドアガラスに張り付く、真っ白な二つの手のひら。
……そして、
長く、つややかな黒い髪で顔を隠して、三日月のように笑う、女の口元を。
二人は同時に息を呑む。
次の瞬間、男はアクセルを踏み込んでいた。
「……今のって、今のって……!」
「知るか! 知るかって!」
二人の乗った車は闇を払うかのように、風を切り裂いて走り出す。
* * *
すごいスピードで去っていくライトを見送って、私は胸を撫で下ろす。
だんだんと上ってくる陽の光に手をかざすと、少しずつ自分の体が透けていった。
まったく、幽霊っていうのも楽じゃない。
幽霊というのは、生者に認識されてこそ存在できる。
だけれど最近の人間は妙に肝が据わっているらしく、ほんのちょっと姿を現した程度では驚いてくれないし、何かの見間違いだと思い込まれてしまう。
私は、今日の車にいた二人の顔を思い出す。
あれだけ怖がってくれれば、また私の話を広めてくれるかな。
そうなれば、今度はまた次の人を新しい演出で怖がらせてあげないといけないだろう。
こうして手を替え品を替え、私は「峠の幽霊」という噂話を、しっかりと生かしていかなくてはならない。
やがて完全に日が昇ると、私の体は溶けるように消えていった。
また、今日の夜に。――今度は、しっかり髪を整えないと。
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