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危険な賭け試合
がらんとした会場にアグーのすすり泣く声がこだましていた。リングの隅でアグーが俯いて目をこすり、しゃくりあげていた。
それにアムは思わず「アグー」と優しい声で話しかけた。
アグーが顔を上げた。その顔は涙と埃で薄汚れていた。
「さあ、早く。その剣でアグーの首を刎ねるのよ。そうすればお前の勝ちだ。賞金3億円が手に入る」
「な、何を言ってるんだ…」
アムは唖然としてポッシェの平然とした顔を眺めた。
アグーは足を引き摺りながら後ずさり、檻にぶつかると檻にすがって喚いた。
「やめてくれ」その眼は恐怖で見開かれている。
「何、ボウッと突っ立ってるんだ。大金持ちになりたいんだろ。こいつの首を刎ねろ」
「お願いだ。命だけは助けてくれ」とアグーはアムへ向かって叫んだ。
「まいったな……。そんなことできるわけないだろ」と、アムが怯えるアグーを手で指しながらポッシェへ答えた。「この子供ロボットに一体何の罪があるんだ。やっぱり、おれはこの賭けから下りる」
アムは剣を鞘に収めると、腰から外し、それを静かに床に置いた。
ポッシェはアムを憐れむような目で見ながら「後悔しても知らないから」と言った。
「途中で賭けを下りることはできません。どちらかが勝つまでこのリングから出られません」と蝶ネクタイの男の声が冷たく響いてきた。
「おれの負けでいいよ。さあ、そのオモチャの剣でおれを倒すんだ」とアムはアグーに話かけた。
「あ、ありがとう。おかげで命拾いしたよ」と、アグーが弱々しく言った。
「おれは君に何の恨みもない」とアムが言った。
「でも、どうして君みたいな幼い子供ロボットがこんなところで闘わされているんだ」
「わからない。物心ついたころからここで人間相手に闘わされてきた。父さんも母さんのことも覚えていない」
「さっきも言ったろう。同情してるとこっちがやられるって」とポッシェがアムに怒鳴った。
と、アグーが天井を仰いで呟いた。
「ああ、この檻に入れらると、どうにもお腹が減ってどうしょうもなくなるんだ」
「ひどい。まともに食事もくれないんだ。食事というのは電気のことかい?」とアムは憤慨した。
「うん。僕が成竜になって空を飛べるようになったら、ここから飛んでいって外にいる人間どもを好きなだけ喰えるのになあ……」
そのアグーの言葉にアムは、えっ、という顔をし、ポッシェと顔を見合わせた。
「今、何て言った?」とアムが恐る恐るアグーに訊ねた。
「聞こえなかった。人間を喰いたいって言ったのさ」
背筋の寒くなるような冷たい響き。それにアムは思わず後ずさった。アムは無意識に先ほど床に置いた剣を拾った。アムは震えていた。
アグーが背中を丸めると、頭から二本の角が生えてきた。腰から尻尾も伸びてきた。手と足が伸びて太くなり、手足が三本の爪の生えた肢に変化していった。嵌められていた鉄輪がちぎれて弾け飛んだ。アムの足元までその鉄環が飛んできた。
「ここに入れられると、腹が減って腹が減ってどうしょうもなくなって理性も何も吹っ飛んでいってしまう」と竜は背中の小さな翼をパタパタとさせながら言った。
「どうした剣を抜け」とポッシェがアムに声をかけた。
「だめだ、抜けない」アムは目を瞑って俯きながら、横にして前に突き出した剣の鞘と柄を固く握りしめている。「身体が固まちゃって動かないんだ」
アムはなんとか柄と鞘を握った両手を引っ張った。剣が鞘から抜けた。アムは震えながら竜へ切っ先を向けた。
「剣術の心得はあるのか」とポッシェはアムに言った。
「そんなもの無い。おれが得意なのは素手のケンカだ」とアムが答えた。
「ざまあ、ないね、だから言ったんだ早く殺せって。まあ、こっちは何の被害もないけどね」とポッシェが笑って言った。
「ど、どういうことだ」
「簡単さ、あたしはね アグーが勝つ方にかけさせてもらったんだ最高額の8000万円をな」
「ありがとうございます。お客様」と蝶ネクタイの男の声が響いた。
「何だって。貴様、アグーの正体を知っていたのか」
「そうさ。だから私はそのロボットが男の子のうちに殺せって言ったんだ。もっともお前にはそれができないだろうと思ってた。いや、それができる人間なんてこの世にほとんどいない。いたら、そいつは獣以下さ。アグーは、心理学の粋を集めて、表情も、声も、しぐさも、幼い子供に対して人間が持っている庇護本能に強烈に訴える姿に作られているのさ。だから、アグーが勝つ方に賭けさせてもらったのさ」
「くそう。だましたな」
「人聞きが悪いねえ。私は一番弱いやつを選べって言ったはすだよ。それなのにお前は最凶の相手を選んじまった。それからもう一つ、教えてあげるよ。この賭け試合に挑んだ人間で、ロボットに勝った奴は一人もいないってことを」
「バグのポンコツで自爆するはずじゃなかったのか」
「かもね。でも、今ここで、自分でバグを見つけな。そうすれば助かるかもよ。まあ、言っておくけど、そいつは3人殺してるし、10人以上病院送りにしている。例のようにアメジア・グループはそのことをマスコミに隠ぺいしてるけどな。本当は法律上、手加減するようにプログラミングされなければならないんだけど、賞金を惜しんだ社長のプレッシャーでプログラマーが人間なんて造作なく殺せるほど強くしちっちまったのさ。だけど勝ったら3億だ。しばらく遊んで暮らせる。ほら、無駄口叩いてるうちにやられちまうよ」
アムが竜の方を見ると、竜もこちらを向いた。その面には先ほどの男の子の面影は無く、縦に割れた飢えた瞳をこちらに向け、狼みたいに牙の生えた口を開けている。喉の奥から地獄の釜が煮えたぎっているようなグルルグルルという唸りが漏れている。竜の足元からジャリという音が聞こえたかと思うと、口を大きく開けてアムへ襲いかかってきた。アムは横っ飛びをして左側に逃れた。逃れてきた右手に目を遣ると、口を開けた竜の頭があった。竜はグルルグルルと唸りながら、頭を軽く左右に振りながら持ち上げて、口先を天井に向けた。
あんなのに呑まれたら、絶対死ぬだろ、とアムは背筋がこおった。アムは恐怖に目を見開き、檻にへたり込んで張り付いた。
竜が再び、鼻先をアムの方へ向けた。竜は、頬を上げて牙をむき、顎に力を入れると、口を閉じた。そして唾をゴクリと呑み込んだ。アムは勇気を振りしぼって立ち上がると、自らを奮い立たせる雄たけびを上げて、剣で竜の胸に斬りつけた。しかし、体を覆う固い鱗に阻まれ、たいした傷を負わすことができない。竜は頭を振って、そして、同じく尻尾も振って、体を片側に湾曲させると、その反動で、尻尾を鞭にしてアムへ打ちつけた。アムの身体がヘッドスライディングをするように土埃を立てながら、床を滑った。その手には剣が握られてなかった。竜がアムの方へ口先を向けた。
そうだッ、とアムは、ふと、ポケットに入れた妖精のことを思い出した。アムは、ポケットに手を突っ込んだ。そして、いたッ、と言うと、手をポケットから引っこ抜くように出し、手に握ったものを竜へ投げつけた。石牢のような薄暗い檻の中を、一匹の輝く小さな生き物が飛び回った。竜は、動物の習性を持っていたのか、動くものを目で追った。妖精は竜の前で8の字などを描きながら飛んだ。竜の瞳がそれを追って動く。ときおり、竜は飛んでいる妖精を噛もうとしたが、妖精はそれをするりするりと巧みにかわし、竜の頭の回りを一周する。竜はそれを追って、虚しく空を噛むばかりだった。やがて、竜の喉の奥の唸りが静まっていった。縦に割れた瞳が呼吸をするように大きくなったり小さくなったりしていた。尻尾が地面に伸び、竜は、頭をうなだれた。そして、前につんのめるようにして一気に地面に倒れ込んだ。瞳は閉じられ、喉の奥からはクォーックォーッと気流音だけが漏れてきていた。
「泥酔してみたいに寝ちまった」とアムは呟いた。
竜が寝息を立てて眠っていた。その鼻先に蛍のように輝いている妖精が止まっていた。
「妖精を見たらだめだ。お前まで、酔いつぶれるぞ。そいつは酒精さ。目で追うと酔っぱらってしまう。そいつの光には人を酔わせる催眠効果があるんだ」とポッシェの声が聞こえた。
「ぐずぐずしてないで、そいつが眠ってる間にとどめをさしな」
「ああ…。でもおれが勝ったら、あんたの掛け金がパ―だぜ」
「あたしがそう言わなくても、お前はとどめを刺すだろ。ちゃんと、バッテリーか、電動モーター、AIコンピュータか、それらを繋ぐケーブルを破壊すするんだ」
「ああ…。わかってる」とアムは力なく同意し、よろよろと立ち上がると、寝ている竜の傍らまで行き、剣で、その首を貫き刺した。主ケーブルを切断された竜はグッとうめき声をもらし、頭をもたげ、目を見開いた。そしてそのままジッと固まってしまった。
「悪く思うなよ」
アムは絶命したアグーに優しく声をかけた。
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