第三章 違背の子

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第三章 違背の子

     はじめて刑場の手伝いをした時、直視することなど出来なかった。惨い刑罰は今でも正視に耐えない。  その光景から目を背けていた時、秋津が見ていたのは殆ど十兵衛だった。当時はまだ少年だった十兵衛が槍持ちをすることはなかったし、十兵衛のほうも秋津を気遣ってくれていたものだ。  秋津よりも先に手伝い人足として刑場に来ていた十兵衛は、元々肝の据わった男でもあったし、秋津が手伝いをするようになる頃にはもう大概のことに慣れていたのだろう。  そういう十兵衛は頼もしかったし、はじめは刑場でも常に十兵衛のそばにひっついて回っていたものだ。  もう何年も前のことを思い返したのは、きっと恭太郎の問い掛けのせいだろう。 「恭太郎様」  鼻削刑執行の朝、刑場に来た秋津は真っ先に恭太郎の姿を探し出し、駆け寄った。  初めて検視役筆頭を務める恭太郎は、一糸の乱れもなく髷を結い、糊のきいた裃に身を包んだ姿で、秋津にはそれだけで雲上人の如く立派に見えた。 「ああ、秋津か、良かった。来ると言っていたのに姿が見えなかったから、心配していた」  鼻削刑程度では立会役人の数も少なく、恭太郎もその少ない他の役人たちとは些かの距離を置いて控えていた。そうでなければ秋津が話しかけることなど出来なかっただろう。秋津の声に振り返った恭太郎は青年にしては柔らかな笑顔で答えた。 「おまえのお陰で、少しは覚悟が出来た」  まだ不安そうな色はあるものの、昨日よりは幾らか血の気の戻った顔色だ。少なくとも笑う事が出来るくらいには気を持ち直すことが出来たらしかった。 「そう。それなら良いんですけど」  つられて微笑みかけた秋津の目に、恭太郎の手許が映る。拳は固く握られていた。  痩せ我慢をしている。拳を見ただけで秋津はそう思った。僅かに気を持ち直したことは確かだろうが、恐れる気持ちがなくなったわけではない。 「検視っていうのは、刑の執行を一部始終見ていなきゃならないもんなんですか」 「いや、手違いなく刑が行われたかどうかを見届ける必要はあるが、一部始終というわけでは……」 「じゃあ、罪人が刑を受けている間は目を背けてあたしを見ていればいいですよ。恭太郎様があたしを強いとお思いなら、心の目と耳を全部あたしに向けていればいい」  すると恭太郎は虚を衝かれたようにぱちりと瞠目した。 「刑場に来たばかりの頃、あたしはそうしていた。その場凌ぎでもいいんだ、そもそも処刑なんか真正面から眺めるようなもんじゃないんですから」  正視に耐えないその感覚は理解出来るし、見ずに済むならそれに越したことはない。寧ろわざわざ挙って処刑を見物にやって来る民草のほうが解せなかった。  身分にもよるが、民の暮らしはそう豊かなわけではない。特別に重税を強いられていることはないが、それでも日々を食い繋ぐだけで終わってしまう。娯楽に興じる余裕があるのは、位の高い重臣家やよほどに大きな商家、豪農くらいだろう。  その他大勢の民たちにとっては、こうした処刑は一種の娯楽であった。日常の中にぽっと投入される非日常。これが日頃自分たちの納める税で暮らしていながら、権高に振る舞う者の処刑ともなれば胸のすく思いがするのだろう。  秋津とて非人というまっとうな社会から逸脱した身分であればこそ、民の心の内は想像の範疇だが、それを肯定したいとは思わなかった。  恭太郎ははじめ、ぽかんと秋津を見ていたが、やがて深く頷いた。 「そうだな、心に留めておこう」    ***    川縁に近い場所に粗末な筵を敷いた上に罪人の男が据えられ、与力や同心といった役人らと執行に携わる非人とがぐるりとそれを囲む。  刑場に着くと大抵が恐怖心から暴れ、喚き散らして抵抗するものだが、稀に従容として執行を待つ者もある。この日の罪人もまた、多分に漏れず前者のようだ。 「おれは利用されただけだ、ただの使い走りで盗人の片棒を担ぐつもりなんてなかった」  どうも強盗の荷運びに加担した罪だというが、罪状の確定までは虚勢を張れていても、いざ刑場に引き立てられると保身に走る。  これも見慣れた光景だ。  そんなつもりじゃなかった、もうしない、やめてくれ、助けてくれ。  次々と飛び出す懇願の言葉にも、役人達は耳を貸さず、淡々と処刑の段取り通りに進めていく。  最後の最後まで虚勢を張り続けられるほど肝の据わった罪人は殆どいなかった。  引っ立てられて喚く罪人を筵の上に打ち据えるのも、非人の男達だ。  こればかりは女の力で抑えられるものでもない。  刑の執行が滞りなく済むまで、秋津の出番は無かった。  愈々削ぎ役の非人が短刀を取り出すと、両の肩を一人ずつに抑えられた罪人の顔色も一層青褪める。  罪人の膝の前に木桶が添えられ、短刀の刃を鼻先に宛がわれると、罪人の喉から、ひっ、と引き攣れた声が漏れ、顔面には脂汗が玉を作って滲み出した。  少し下がったところにいた秋津も、罪人の慄然とした様子が窺える。発狂寸前といったところか。  十兵衛が罪人に轡を咬ませる時にも、激しく顔を左右に振って抵抗し、手を煩わせていた。 「いい加減に観念しろ。荷運びの見返りを存分に受け取ったくせに、鼻が惜しいとは笑わせる。命まで取られぬのだ、有難い話であろうが」  忌々し気に吐き捨てるのは、検視与力の男だ。  苦々しく顔を顰めてはいるものの、執行に対して躊躇や恐怖は抱いていないようで泰然とした様子である。  与力に並んで検視席に腰を据える恭太郎も、今日は幾分落ち着いているらしい。 (やっぱり顔は強張ってるな)  たが、逃げ出すようなことはあるまいと何となく感じ取れた。  やがて、なんとか轡が噛まされると、刃先がぐっと罪人の鼻先に押し付けられ、鼻の肉を下から上へと一気に削いだ。  轡のせいでぐうっとくぐもった呻きが上がり、鮮血は諾々と溢れ、桶にぼとぼとと音を立てて流れ落ちる。  その様を見届けた与力も流石に渋面を作りながら、非人たちにさっさと片付けろと言わんばかりの合図を送る。  その瞬間には直視出来なかったらしい恭太郎も、全てが終わったと知るとそろそろと罪人へ視線を戻したようだった。  秋津もようやっと自分の仕事に取り掛かる。 (はあ、恭太郎様のように逃げ出すわけじゃあないけど、罪人の鼻を切った血なんて、出来れば触りたくもないんだけどねえ)  血の匂いは一度つくとなかなか取れない。  手伝いが終わってから、川の水で汚れと匂いを洗い落とすのも一苦労なのだ。  応急処置を施す為に、血を流したままで再度脇を抱え上げられて引き摺られてゆく罪人を流し見る。  脂汗と涙と削がれた鼻から溢れ出る鮮血とで、酷く見苦しい顔になっている。  この後、彼は鼻の削がれた顔のまま、領地の外れから他領へと追放されるのである。それが、この罪人に与えられた罰だった。  内心で吐息しつつ、秋津は血で汚れた筵を片付け、側を流れる川の水で辺りに散った血を洗い流す作業に取り掛かるのであった。    ***    御堂へと続く道は雑草が生い茂り、殆ど埋もれて下草と道の境も曖昧だ。  日が沖天に昇る頃には罪人の一応の手当ても済み、手伝い人足の非人たちにも暇が出された。  これもやはり大した銭にはならないが、一応の取り分を受け取り、秋津も漸く家路についたのである。  昼日中から暇が出されたとなれば、また何かしらの稼ぎ口を探しに行くことも考えたが、先日も十兵衛には無理を言ってしまったばかりだ。  あまり頻繁に駆り立てると、流石の十兵衛も顔を曇らせるかもしれない。  先日の磔での槍持ちに続き、今日は今日で鼻切り刑の罪人の頭を抑える役目だったのだ。大の男でも相当に神経がやられるだろう。  日も高く昇ったが、御堂を囲む杉林を抜ける道は殆どが陰となり暗く澱んでいる。  地元の人間は昼間でも近寄ることすら避けている場所だ。  狐狸に化かされるとか、幽霊が出るとか、雰囲気だけで勝手な噂が流布されてゆく。  暫く御堂に寝泊まりしているが、そんなものに出会した(ためし)は一度もない。  どれも根も葉もない噂話に過ぎないが、その噂のお陰で安寧を享受出来ていることには感謝していた。 (まあ今はいいけど、冬は困るな……)  夏の時期とは打って変わって、冬は深々と雪の降り積もる土地だ。  このまま御堂で冬を過ごすのは、厳しいものがあった。  それまでにもう少し寒さを凌ぎやすい住処に移り住むか、と考えていたところで、道は漸く明るくなり、僅かに開けた御堂の境内へ出た。 「あ」  いつもは無人の御堂の、朽ちた階に休む人の姿が目に入る。  恭太郎だ。  秋津に気が付くと、恭太郎は立ち上がりこちらへ向き直る。  思わず立ち止まってしまったが、秋津もややあって恭太郎のほうへ歩き出した。  この上まだ何かあるのかと訝りながら歩み寄ると、驚いたことに恭太郎は秋津へ向けて深く一礼した。 「おまえのお陰で、今日は何とか耐えることが出来た。心から礼を言う」 「ちょっと、やめてくださいよ。誰もいないからいいようなものの、こんなところを人に見られでもしたら……!」  郡代の嫡子があろうことか非人に頭を下げるなど、前代未聞だ。 「恭太郎様は勿論、元宮の御家の評判にまで傷がつくじゃないですか!」  慌てて顔を上げるように言うと、恭太郎はゆっくり上体を起こして秋津を見た。 「本当に感謝しているんだ。おまえに叱咤され、勇気も貰った」 「だからって、それだけのためにお武家様がこんなところへ来ちゃあ駄目でしょう」  わざわざ非人の娘を訪ねているなどと噂が立てば、恭太郎の立つ瀬がなくなる。  父母からもお叱りを受けることは間違いない。  噂話の独り歩きを馬鹿に出来ないことは、秋津もよく知っていた。  だが、慌てる秋津とは裏腹に、恭太郎はまた階にゆるりと腰掛けてしまった。 「少しだが握り飯と漬物を持って来たんだ。今日の礼に、一緒にどうだ?」  傍らに置いた包を膝の上に広げ、竹籠の蓋を開ける。 「腹は減っているだろう? さあ、ほら」  昨日の青褪めた顔とは違い、今日は一段と明るい笑顔を浮かべている。  とんとん、と階の古板を軽く叩いて自らの隣に誘う。 「お、お武家様の隣に並んでお相伴には預かれませんよ」 「? なぜだ? どうせ誰も見てはいない」  いいから座ってくれ、と今一度乞われ、秋津は迷った末に少し間を空けて隣に座ったのだった。    ***    大きな握り飯と、胡瓜と茄子の漬物。  常に満足に食えてはいない身からすると、それだけでも御馳走と呼べた。  米を食べたのも随分久しぶりだ。 「……ご馳走様です」  気まずいなとは思いつつも、空腹には勝てず、すっかりぺろりと平らげてしまった。  それを見届けると、恭太郎も嬉しそうに破顔する。 「ところで、おまえは無宿なのか?」  無宿とは、非人の中でも人別帳からも外された者をいう。  秋津の場合は無宿とは違い、人別帳に名のある非人だ。  非人長屋に住む者は人別帳に名前のある者たちばかりで、秋津も本来は今も長屋にいることになっている。 「あたしは、小さい頃に頭に預けられたから、今も長屋の非人てことになってるはずだよ。だから、無宿とは違う」 「そうだよな。でなければ刑場の手伝い人足は出来ないだろうし……」  ではなぜ、と恭太郎は問う。 「縄張り争いで揉め事を起こしたんですよ。長屋には二十も三十も住んでるんだ。牢番してる奴もいれば、あたしや十兵衛みたいに刑場の手伝い人足をする奴もいる。生業はそりゃ色々だけど、みんなその傍らで自分の縄張りを廻って反故紙や髪を集めて売って、銭に替えてるんだ。他人の縄張りにまで足を延ばしちまったあたしが悪い」  非人同士にも色々あるものだ。  そもそもが、それぞれ違った事情がある。生まれたときから非人だった素性非人もいれば、よそから欠け落ちて非人になった者もいる。  生国が違えば人の性質も異なるものだ。お国柄というやつだろう。そうした些細な食い違いから、どうしようもない諍いに発展することも間々ある。 「あたしの場合は母親が他領から流れてきた欠落者だったらしくてね。どこかの殿様の奥女中だったそうだよ。それが、奥小姓と恋仲になって身籠っちまった」  不義密通の罪を犯して命からがら逃げて赤子を産んだのはいいが、追跡の手はなかなか緩まなかったようだ。  それでも何年かは逃亡を続け、各地を転々としてきたが、やがて逃げ切れないと思ったか、或いはそんな暮らしに疲れたのか、母はとうとう源太郎に幼い秋津を託して姿を消したという。 「まあ、頭に聞いた話だから、どこまで本当か分かりゃしないけどね」  ただ覚えているのは、源太郎に預けられて暫くは、泣きながら戻らない母親を待っていたことくらいだ。  きっと源太郎も手を焼いたことだろう。 「それでも、あたしなんかまだいいほうさ。頭や十兵衛が何やかんや世話してくれていたんだ。寂しさなんかそのうち忘れたよ」  空腹が満ちたからだろうか。それとも、先日の磔にされた女囚の罪状が、母親に似ていたせいだろうか。うっかり身の上話まで披露してしまった後で、秋津は急に自分がおかしくなった。 「まあ、未だに姿を晦ましたままってことは、諦めてお縄にかかったんだろうね」  生きているのか死んだのか、それさえ秋津に知るすべはない。  黙って耳を傾けていた恭太郎は、顔を曇らせた。 「……それが真実であれば、おまえの母はそれなりの身分ある者だったのだな」 「どうだか分かりゃしませんよ。元の身分がどうだって、罪人になっちまったらそれまでだ」 「父親がどうなったのかは、分からないのか」 「さあ? 頭が聞いた話じゃ、男のほうも捕まって、どこか遠国に身柄を預けられたっていうけど、それも本当かどうか」 「そうか……」  何となくしんみりとした雰囲気になっていたのを振り払うように、秋津は声を張った。 「あたしは別に誰も恨んじゃいないし、今の暮らしもそう不満に思っちゃいないよ。刑場の手伝いだって、慣れりゃどうってことはないからね」  仕事があるだけ恵まれている。  長屋を出ている今ですら、源太郎も十兵衛も気に掛けてくれているのだ。  そのことに感謝こそあれど、境遇を嘆いたことなどない。  そう言ってにっと口角を上げてみせると、恭太郎もやがて目を細めて穏やかに微笑み返したのであった。    ***    日も大分西に傾いた頃になって、十兵衛は源太郎の家から長屋の部屋へ戻るためにぷらぷらと歩いていた。  長屋は河原の処刑場に程近い、城下の町並みからは随分離れた場所だが、その分開けて風通しの良いところだ。  水辺の風は涼やかで、昼間の熱が引いていくような心地よさだった。 (秋津のやつ、今日はあれから姿を見せねえな)  鼻削ぎが早くに終わっただけに、今日も秋津がやって来るかと思っていたが、暫く待っても訪れがなかった。  もう今日は来ないものと諦めて、十兵衛は源太郎のところへ見習い仕事に出掛けていたのである。  ここ最近になって、源太郎が正式に跡目を継いで欲しいと十兵衛に話を持ち掛けるようになっていた。  今日も顔を出せばその話になり、滔々と口説かれていた。非人頭ともなれば、そこらの下手な武士よりも裕福な暮らしが出来るだろう。現に今の源太郎は非人の身の上でありながら、様々な特権も得ており、経済的にも恵まれていた。  だが、非人に与えられる仕事は実に多岐にわたるもので、時には穢多たちの領分である牛馬の解体や獣の皮を扱う仕事にも手を出すことがある。加えて役人たちとの遣り取りや、長屋に住む非人たちの取り纏めなど、覚えることは随分とあった。  源太郎には子がなく、親のない十兵衛や秋津を我が子同然に可愛がって育ててくれたものだ。  だからこそ、十兵衛としても頭を継ぐ話は先々受けたいと考えてもいる。  長屋の者たちも、今では一目置いてくれている様子で、源太郎の不在には十兵衛が代わって取り仕切ることもあるくらいだ。  気掛かりなのは、同じように源太郎に育てられた秋津のことだった。  それは源太郎も同様に思っているはずなのだ。  秋津が揉め事を起こして長屋を飛び出していくまでは、ゆくゆくは十兵衛と秋津とで非人長屋を回していくようにと口癖のように言っていたものだ。  それが、このところはぱたりと口にしなくなった。  育てて貰った恩は感じているし、頭を継ぐのも吝かではない。  けれど、長年言われ続けて染み付いた秋津との夫婦の話が立ち消えになっているのが心に靄をかけている。  頭を継いで一緒になれば、今までより良い暮らしをさせてやれると思ってきたが、源太郎はどう考えているのだろうか。 (今度、それとなくおやっさんに聞いてみるか)  どうせ明日にはまた源太郎のところへ顔を出さなくてはならない。  もうじき長屋まで辿り着くというところまでやって来て、十兵衛は茜色を帯び始めた空を見上げた。  その視界に、何となく秋津の住む御堂がある山を捉えるが、河辺の道からは御堂そのものが見えるはずもない。  鴉が(ねぐら)へ帰っていく姿がちらほらと臨めるだけであった。     【第四章へ続く】
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