第五章 墨刑の日

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第五章 墨刑の日

    「あたしは戻らないよ」  岩屋を訪ねてきた十兵衛に、秋津は開口一番にそう言い放った。  山肌に突き出た巨大な岩盤が重なり合うようにして出来た洞穴で、奥に入るとニ、三人ほど寛げる余裕がある。  起居するのに筵を敷き、僅かな灯を最低限整えてあるが、他には寝る為に御堂から拝借した古い畳があるだけだ。  長屋から持ち出して来た物といえば、鍋と匙、それに茶碗が一つと、別れ際に母親から預けられた短刀が一振り。  形見のような物だが、長屋を出てからは何かと便利な短刀で、竹や木を削るのに重宝していた。  外で話そうと思ったが、十兵衛に押し切られ、岩屋の中で対座することになってしまった。 「だからもうほとぼりは冷めてるって言ってんだろう。吉次は勿論、今や誰もおめぇを責めるような奴はいねえんだ」  吉次というのは、秋津と揉めた非人の名だ。 「あたしなりのけじめのつけ方だ。皆の前で当分長屋を出るって宣言しちまったからには、はいそうですかってのこのこ帰れやしないよ」 「んなこたァ知ってる。おやっさんも今はおめぇの筋を通させてやろうって言っちゃあいるさ。だがな、おやっさんの歳も考えてみろ」  六十はとうに超え、六十五に届こうという高齢だ。  これがもし武家や町方なら、既に隠居の身だろう。  今のところは元気にしている源太郎も、もうあとどれだけ頭を続けていられるかは分からない。 「おれがこのところ頭の仕事を覚えさせられてんのは、おめぇも知ってるだろ? おやっさんを安心させてやりてぇんだよ、おれは」 「そりゃ十兵衛が跡目を継いでやりゃいいだけの話だろ。十兵衛ならみんなついてくるだろうし、早いとこ継いでやったら頭も安心するんじゃないの」  それは十兵衛と源太郎の間の話であって、秋津に直接関係してくるものではない。  実際に、十兵衛は長屋の人間とはうまくやっているし、人徳もある。長屋の非人たちは、十兵衛が頭を継ぐのを望む者ばかりだ。 「だァから、そうじゃねえって……ああもう!」  急に苛立ちを募らせたように、十兵衛はがしがしと乱暴に髪を掻き毟る。 「? な、何だよ、だって跡目のことならあたしにゃ直接関係ない話じゃないか」  唐突に苛立ったのを見て、秋津はぎょっと身を引いた。 「ああいや、悪い。まあなんだ、おれが頭を継ぐこたぁ構わねえんだ。ただその……」  十兵衛はちらりと秋津の目を見て、またすぐに外らす。 「何だよ、随分はっきりしないね。十兵衛らしくもない」 「うるせぇ、おれにだって言い難いことぐらいあらぁな」 「言い難い?」  そうまで引き延ばされると余計に引っ掛かるもので、秋津は眉根を寄せて首を傾げる。  じっと十兵衛を凝視するが、肝心の十兵衛の目は一切こちらを見なかった。 「……っだから! おれが頭になるからには、おめぇが長屋にいねえと困るんだよ!」 「はあ、なんでよ?」 「! ……なんでって、おめぇ、だからそいつはだな……」  しどろもどろに言い淀む十兵衛の顔を、秋津は訝って覗き込む。  すると十兵衛は余計に視線を逸らし、そっぽを向いてしまった。 「ああもう、今日はもういい! また出直してくらぁ!」 「は、だから説得なら何度来ても無駄だよ」  少なくとも次の春までは戻らないつもりで出たのだ。  十兵衛が何と言おうと、厳しい冬を長屋の外で過ごすことで自分なりのけじめを付ける。  そうしてこそ、長屋に戻ることも叶うだろうし、一応の筋を通したという体面も保てるものだ。  十兵衛は短く嘆息し、やおら立ち上がった。 「また来る。それと、明日は墨刑があるそうだ。おれは行かねえが、おめぇは人足で行ってこいよ」  言い置いて、十兵衛はどっと疲れたように足取り重く岩屋を後にした。    ***    墨刑は牢屋敷に併設の見廻り詰所前の砂利の上で行われる。  盗みを働いた者の罰として肌に入れられるもので、左腕に文様と、額に悪の一字を刻み付けられる刑罰だ。  墨の入れ方は諸国で異なるらしいので、一度入れられるとどこで罪を犯したか凡そ分かってしまう。  秋津が牢番の指示で墨や針といった道具を揃えていると、恭太郎が目付と共に牢屋敷を訪れた。  墨刑程度の軽微な処刑の検分は、通常同心や目付くらいなもので、奉行や郡代がわざわざ出向いてくることはない。  そんな場にまで恭太郎が出てくるとは思ってもいなかったが、見習い故なのだろうか。大抵の事柄に同席している様子だ。  同様に、裁きの場にも詮議の場にも顔を出しているのだろう。  火熨斗を当てた裃は皺一つなく、整った面立ちも相俟って美丈夫然として映る。薄汚れた格好の自分とは、身分の違いを否応でも感じさせられた。 (恭太郎様もああしていれば、しっかり高官に見えるんだな)  ぼんやりそんなことを思っていると、詰所の縁側に設けられた席に着く恭太郎と視線が絡んだ。  と同時に、恭太郎がにこりと微笑みかける。 (!? 手伝い非人に笑いかけるなんて、馬鹿じゃないのあいつ)  手でも振ってきそうな満面の笑みで、見ているこちらが肝を冷やす。  秋津は咄嗟に視線を逸らし、筵の側に道具を揃え置くと足早に砂利敷きを出て控えた。  やがて腰縄を打たれた囚人の男が牢から引き出されてくると、牢の鍵役が出牢証文と引き合わせ、引き出されてきたのが本人に相違ないことを目付の前で証明する。  詰所前の片隅に控えて以後も、時折こちらを窺うような視線を感じたが、秋津は悉く気付かぬ振りを通した。  何か不手際があるならば別だが、下女のような仕事には慣れ切っているため、自分でもそつがないと自負している。  引き据えられた囚人が縄を掛けられたままで左肩が脱がされると、秋津はまた筵の囚人の近くに歩み出た。もう一人、手伝い非人の男が墨で文様を描くのを手伝うためである。  墨の文様の上から、先ほど秋津が用意した針を(ささら)のように束ねたもので皮膚を破いていく。  比較的軽い刑と言っても、これはこれで苦痛を伴うし、墨が入れば生涯消えぬ刻印となる。  囚人はと言えば、太々しくそっぽを向き、 「早くしろや。墨の一つや二つ増えたところで痛くも痒くもねえ」  などと悪態をつく。  なるほど確かに、と秋津は思った。  その囚人の額には、既に悪の一字が刻まれていたし、腕の文様も既に一つある。  初犯でない上に、反省もしていない様子だ。  それでも針の筅は苦痛なのだろう。時々耐えかねて身体を震わせ、顔を歪めてもいた。  盗みの常習犯でも、痛いものは痛いらしい。  筅の跡に両手で更に墨を刷り込んでいくのを眺めていると、潜めた声が耳に入る。 「おい、何ぼんやりしてんだ、手桶寄越せ」 「あっ、ああ、はい」  水の入った手桶を囚人の腕に寄せると、墨を洗い流してしっかりと拭う。  手伝い非人の男も手馴れたもので、綺麗に墨が入っていた。  これで墨の入りが足りないと、針に墨を付けてまた刺し直す羽目になる。  手早く済んで有難いと思う反面、この囚人の反省の色のなさを見るに、もう少し痛い目を見せたほうが良かったのではないかとも思う。 「さて、それでは墨の乾いた頃にまた検分するとしよう。元宮殿もそれまで休まれては如何かな」 「ああ、ならばそうさせて頂きましょう」  一連の作業が終わるのを見届け、目付が見飽きたようにやれやれと欠伸をする。  この後、囚人はまたも縄打たれたまま牢屋敷に留め置かれ、墨の乾いたところで検分を受けることになる。それで漸く出牢を許されるのだ。  道具を片付け詰所の砂利を綺麗に敷き直せば、秋津の仕事はそこまでだ。  大して人手の要らない刑罰で、本来は墨を入れる非人一人でも十分なのだろうが、恐らくは十兵衛が捩じ込んでくれたものと思われる。  囚人が戻され、目付もさっさと詰所の奥に入ってしまうと、秋津もそそくさと片付け仕事に取り掛かる。  が、恭太郎は縁側の席から砂利へ降り、一直線に秋津の許へ駆け寄った。 「おまえも来ていたのだな」 「えっ、ええ……仕事があると言われましたんで」 「そうか。私も本来は入墨で検分に来ることもないのだが、これも見習いの一環でな」  にこにこと笑って話す恭太郎に、秋津は些か狼狽する。  人目がなくなったとは言え、ここは詰所だ。  中には目付もいるし、もう一人の手伝いも近くで道具を手入れしている。 「その、すいません。あたしはまだ仕事が残ってますんで、これで」  こんなところで気さくに非人に話しかけてくる高官がどこにいるのか。 (ここにいたけどさ……)  声を掛けてきたことを諫言しようかとも思ったが、ここで気安く会話しているのを見られるのも良くない。  すると、恭太郎もはっとしたように周囲をきょろきょろと見回す。  一応は二人きりだが、どこに目と耳があるか分からない。 「す、すまん。おまえの姿を見ていたら、つい……」 「ついじゃないですよ、あたしに構う暇があるならさっきの目付や同心と話すほうがよっぽど有意義ですよ」  長くなりそうなのを遮り、秋津は砂利に残された筵を手繰り、格好だけ一礼してその場を離れた。    ***    姿を見掛けただけで、心が浮き立つ感覚がした。  着飾ることは愚か、襤褸を纏って髪を垂らした非人の娘。  本人曰くまだ恵まれた境遇なのだと言うが、決して楽な暮らしではないだろう。  その眼は強く、何かに媚びるということもしない。  これまで穢多や非人などとは人別帳の中に名を見るくらいで、直接的な関わりなどなかったし、物乞いをする者を見れば哀れと思って僅かばかり銭を投げてやったことがある程度だ。  秋津が仕事を終えて牢屋敷を出た後、恭太郎は目付と共に囚人の入墨を検分した。  墨も入り、囚人の縄を解いたは良いが、いずれまた盗みを働くように思えてならない。  その者の出自を調べれば、度々飢饉に見舞われる、領内でも特に痩せた土地の出身であることが分かっていた。  食い詰めて城下に流れ込み、まともな職にもありつけずに盗みを繰り返しているのだろう。  悪態をつきながら同心に付き添われ、牢屋敷の門前に放り出される。  その様を眺めつつ、恭太郎は暫し思案した。  その隣で、目付の男は乱暴に扇子で仰ぎ、嘲り嗤う。 「まったく、次には即刻追放してやる。どうせあの類はすぐに再犯だ」 「確かに、反省の色は見えなかったように思うが……」 「他所からの流れ者のようだが、あのような下賤の者に城下を荒らされたのでは堪らんわい。近頃は盗人が多くてまことに困ったものよ」 「あの者の住んでいた村は、常に貧しいと聞いている。盗みは許されないことだが、まずは村々の収穫量と年貢の均衡がとれているのか、そこを見直した上で救済策を取らねばなるまい」  根底から是正していかねば、ああいう罪人は増える一方だ。ひいては城下の治安悪化も懸念される。 「左様ですなぁ。いやはや、流石は帯刀様のご嫡男。物事の捉え方が違っておられる」 「いえ、代官時代に少し耳にした事があっただけのこと。暮らしが立ち行かず、欠落する者があとを絶たぬ村がある、と」 「ふむ、やはり元宮殿には代官や郡奉行が適任なのではあるまいか? 我々の職務は罪人を罰することにある。生半(なまなか)な情を抱いては、それこそ奴らを助長してしまう。元宮殿には、些か荷が勝ち過ぎるかもしれませんなァ」  犯罪人には苛烈な刑を以て罰する。それでこそ、再犯を防ぐことが叶う。  目付の男はそう言うが、何のことはない、単純な嫌味だ。  処刑場での検視に耐え切れず、失態を演じたことは既に町奉行の配下にあって知らぬ者は殆どない。  荒事の多い職務に腰抜けの上役は要らぬ、と、暗にそう言いたいのだろう。  己の失態の大きさを実感する。  それが挽回できない限り、憤りのままに何か言い返したところで余計に立場を悪くするだけだろう。  もう何度、歯噛みしたか分からない。 「此度の墨刑執行の報告を。元宮殿、お願い出来ますかな」  返答に窮していた恭太郎にそう言い残して悠々とその場を去りゆく男の背を、ただ睨みつけるのみであった。    ***    それから奉行所へ戻り、検分報告を纏めて登城するのだが、恭太郎はその道すがら城下の町並みを一人眺め歩いた。  こうして見れば、城下は平穏そのものだ。  道行く人々の表情も明るく活気付いている。  しかし、少し町を外れると、近年では無宿者、つまりは物乞いがちらほらと見受けられるようになったのも事実。  特に農村からの欠落者が目立つようだ。  最近では商家が軒を連ねる界隈にまで、路地に筵を敷いている者の姿を見かけるようになった。  商人たちはそれを疎んじて、水を掛け追い払う。  そんな光景すら目にしたことがあった。  これでは、罪人など増える事はあっても減りはしない。  つらつらと考えながら歩むと、一軒の小間物屋が目に入った。  桃割髪の小奇麗な町娘が暖簾を出てゆくのを見て、何となく足を止める。 (そういえば、秋津はいつも長い髪を垂らしているな)  非人故に結髪は許されず、雨や雪でも笠を被ることも許されない。  一目で他の平民と区別出来るように定められたものだが、秋津も今見た町娘とそう変わらぬ年の頃だ。  話を聞いた分には、生れ落ちた時点で既に非人の身の上だったのだろう。  生まれながらの非人──、非人素性というやつだ。 (……そうだ)  恭太郎はふと思い立ち、小間物屋の暖簾を潜った。 「いらっしゃい──、って、郡代様のとこの。ウチへいらっしゃるなんてお珍しい。何かあったんですか?」  番頭が声を掛けてきたが、客ではなく職務として訪ねたと思ったのだろう。  やや声を潜めながら小走りに近付く。 「ああいや、特に何があったというわけではないんだ。櫛をいくつか見せて貰いたいのだが……」 「櫛、ですか」  きょとんと目を丸くしてから、ははあとしたり顔をする。 「承知しました、元宮様の御用ならそりゃ勿論ウチの取って置きをお見せ致しますよ!」  さあさあと上がりに腰を掛けるよう勧め、店子は女中に言い付けて店の奥から品を持って来させる。 「ああいや、それほど高価なものでなくて良いのだが」  多分、あまりに高価なものでは秋津も受け取ってはくれない気がする。ただでも堅いところがある娘だ。  それに、困らせたいわけではない。 「年頃のおなごが喜びそうなものがあれば、それで……」 「またまた、お相手はいずれ奥方にお迎えするんでございましょう? だったら元宮様の御名に相応しい立派なものをお贈りになるのが一番ですよ」  奥方、という店主の言葉に、恭太郎はほんの少し呆気にとられたあと、丁重に断った。 「いや……、悪いがそういう相手ではないのだ。とても良くして貰っている礼というか……」 「そうなんですか? まあ色々とございますんでね。お気に召す品がきっとあるはずですとも」  聞いてか聞かずか、番頭自ら美しい紗を敷いた上に次々と櫛を並べていく。  頼んでもいない簪まで出し始めたあたりで、恭太郎は一点に目を留めた。  花や文様の精緻な彫りや抜きがされた飾り櫛の中から、一つ簡素な梳き櫛を手に取る。 「おや、梳き櫛ですか。そちらも柘植の良い品ですよ。ただねぇ、おなごへ贈るにはやっぱり飾り櫛のほうが見栄えもしますんでね。ほらこちらなんかは漆塗りで──」 「これがいい。これを貰えるだろうか」  次から次へと飾り櫛を見せては勧める番頭を遮り、恭太郎はやや語気を強めて言った。 「え、はぁ……。でもよろしいんですか? もっと華やかさがあったほうが良いかと思いますが……」 「あまり飾り立てる人ではないんだ。こうした物のほうが喜ぶと思う」  この櫛で髪を梳いてやったら、きっと笑顔になる。  次に秋津を訪ねた時に渡そう。  そう決めるまでに、さして時間はかからなかった。      【第六章へ続く】
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