第七章 火の手

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第七章 火の手

     苛立つのは、随分と久しぶりの感覚だった。  次の非人頭だというあの男に対して、腹の底で煮え立つような苛立ちを覚えた。  嫌がる秋津を力尽くで引き摺って行こうとするその光景に、考えるよりも早く足が動いていたのだ。  気が付けば間に割って入っていた。  守らなければ、と自然に思ったし、男に手を引かれる様を見るのが不快だった。 (私も、あの男と同じなのだろうか)  訪ねて行けばまた来たのかと呆れ顔をされるし、声を掛ければ困り顔で余所余所しく流される。  本当は迷惑に感じているのだろうか。  あれほどに嫌がっていた割には、後から男を庇うような言動さえあったし、何より男に添うことそのものを受け入れるような口振りだったのが、胸中に靄となって蟠っている。  半ば押し付けるように渡した柘植の櫛も、今頃どう返そうかと悩ませているかもしれない。  髪を梳いてやった直後に見せた、少しはにかんだような秋津の顔。  目にした途端、心の臓をぎゅうと握り潰されたような感覚が走ると同時に、あの男に対する苛立ちが沸々と湧き上がるのを抑えられなかったのだ。  きっとあの十兵衛という男はまた秋津を連れ戻しに来るだろう。  秋津自身も春には長屋へ戻るつもりだと言ってもいた。  非人身分である以上、あの男に従うほうが幸せなのかもしれない。  少なくとも飢えたり住む場所を追われたりすることはない。  秋津の為を思えば、早く長屋へ戻るよう勧めてやるのが最善なのだろう。  分かっていながら、情動のままに抱き締めてしまった。  恭太郎は掌を見詰め、その柔らかさと温かさを思い起こす。 「秋津……」 「誰だ? それは」  不意に声をかけられ、恭太郎ははっと顔を上げた。 「虎之助か」 「大丈夫か、ぼんやりして。講釈も殆ど上の空だっただろ」 「いや、すまん。少し疲れていたようだ」  月に二、三度ほど、学館では本士たちを集めて儒者による講釈を行う。  時に御前講釈などもあるため、学館を訪れる者の年齢層は実に幅広い。  今の今まで講釈があったのだが、出席していながら殆ど内容は頭に入っていなかった。  ぞろぞろと出席者が退室してゆくのにも気付かずに、座したまま物思いに耽っていたようだ。 「思い悩んでいるようなら、話くらい聞くぞ」  眉尻を下げて窺う虎之助と目が合い、恭太郎は慌てて頭を振った。 「ああいや、悩みと言うか、少し心の整理がついていないだけだ」 「ふうん? それで、秋津というのは誰だ? おまえもそろそろ身を固めるのか?」  にんまり笑い、虎之助はどっかりと対面に胡座をかいて頬杖を突く。  家格の高い家ほど嫡子の婚姻は早くから考慮されるものだが、恭太郎の場合は未だ許嫁もいない状態だ。  それもまた、父・帯刀の意向であった。  後継に相応しいと父が認めて初めて、恭太郎に添わせる娘を良家から迎えるという。  全てにおいて、父の裁量で取り決められるのだ。 「ハハ、まだそんな話は出て来ないな。虎之助こそ、どうなんだ」 「おれは随分昔から許嫁はいるぞ? 正式に迎えるのはもう少し先になるかもしれんが、一応な」 「ああ、そうか……そうだったな」  ある程度の家柄の嫡子ならば、十二、三歳で許嫁を決めていることもある。  虎之助も恭太郎も未だ妻を迎えておらず、一般には遅い部類だ。  虎之助が今以て祝言を挙げていないのは、他でもない江戸への遊学が原因だろう。 「聞き慣れぬ名だが、おまえが思い悩むってことは、町方の娘か? 町方の娘でも、武家の養女となれば縁組することも叶うかもしれないぞ」  そう塞がずに話してみろ、と虎之助は尚も促す。 「悪いがそういう相手ではないんだ。刑場での検視の際に、よく話すようになったおなごがいるんだが、……その娘の名だ」  食い下がるように催促していた虎之助の目が、矢庭に鋭くなったのが見て取れた。  さもありなん、顰蹙ものだろうと恭太郎自身も思う。 「……刑場で、だと?」 「そうだ」 「それは、家中の娘か。それとも……」  射貫くような視線を向け、虎之助の面持ちは先ほどまでとは打って変わって強張ってしまった。  その先に続く言葉は、学館の中では口にするのも憚られたか、虎之助は言い掛けて口を噤む。処刑を執行する場に、家中の娘がいようはずもなかった。 「手伝い人足として働く娘なのだが、これがなかなか気が強くてな。幾度も叱咤されているんだ」 「……恭太郎、まさかとは思うが、その娘と深い仲になっているわけではないだろうな」  深い、というのが一体どの程度のことなのか判然としないが、恭太郎は静かに首を振る。 「そんなわけがないだろう。あれにはあれの事情がある。秋津にとっては私の存在など蚊帳の外だろうよ」 「……」  自嘲気味に言う恭太郎の様子を具に改めるように見、虎之助は突如恭太郎の肩に掴みかかった。 「悪いことは言わん。それはやめておけ、いいな。二度とそのおなごに会ってはならん。奉行や与力に変に気取られれば、帯刀様のお耳にも入るに違いない」 「お、おい、虎之助。そんな仲ではないと言っただろう? そこまで深刻に受け取らないでくれ」  やや気圧されて、恭太郎は苦笑する。  しかしそれでも、虎之助の気勢は削がれなかった。 「おまえは知らんのだろうが、一つ忠告しておいてやる。町奉行の配下にある者が、おまえを噂しているのを聞いたことがある」 「噂……?」    ***    学館での教授方というのは、江戸で学んだものを活かすには打って付けの職務だが、恭太郎のような大身の身分とは違い、虎之助の安藤家はそれだけで暮らしを立てていくことは困難だった。  勘定方に出仕を命ぜられ、加えて門弟を募って私塾を開き、非番の日は家中の子弟を相手に算術を、また下級武士を相手に砲術を教えることにしたのである。  これがやってみるとなかなかの忙しさであったが、番入直後の若い家中もちらほらと門下に入り、まずまずの運び出しだろう。  そんなある日の授業を終えた後だった。  虎之助はその日訪れていた塾生の男に声を掛けられた。 「安藤先生、少し宜しいでしょうか」  次々と帰っていく塾生たちの中から外れ、書物を片付ける虎之助の前へそそくさと膝を折った。 「先生は確か、元宮恭太郎殿とは知己であったかと」 「ええ、幼い時分から共におりましたので。……恭太郎がどうかしましたか」  じっと見詰めてくる男の顔を見返して、虎之助は首を傾げる。  よく見ればこの男、確か与力の一人である。  城下に戻って間もないために、誰がどの役職に在るのか今も覚えきれていない。 「近頃の恭太郎殿に何か変わったことはないでしょうか?」 「変わったこと、ですか」  そう言われて先日顔を合わせた恭太郎の姿を思い描く。  が、特筆するような何かは無かったように感じた。  うーん、と暫時唸ってから、 「強いて言うならば、刑場での検視のお役目が辛いのではないかと、そのくらいでしょうか」  と答える。 「しかし、私が想像していたよりは気丈にやっているという印象でしたが」  すると、男は一度背後を振り返って、また虎之助に向き直る。  人のすべて退出したのを確認したのだろう。 「それだけですか? 実のところ、恭太郎殿は目を背け耳を塞ぎ、挙句は刑場から遁走する始末。それがごく最近ではぱたりとお逃げにならなくなった。先だっての磔刑の折にどこかへ逃げ出してからです」  磔や打ち首などの刑は、確かに見るに恐ろしいもの。逃げ出したくなる恭太郎の気持ちは虎之助も充分に理解出来る。  元来、血を見るのが苦手な男であったために、検視せねばならない立場には尚更同情の念を抱いてしまう。 「以前は処刑となると沈み切った面持ちで、口数も少なかったのが、このところはお出ましも早く、表情も妙に明るいように感じることがあるのです」 「それは、漸く慣れてきた、というのとは違うのですか」 「いや、それならば良いのですが、執行のその時は相変わらず目を背けているし、その間に何を見ているのかと思えば、どうも非人の女をじっと見詰めておいでで……」  当の女は恭太郎と目を合わすこともなく、仕事を遂行しているのだが、刑場にいる間は何かとその女に気を取られている様子が窺えるのだと、男は大まじめに話す。 「まあまあ、恭太郎とは私も随分長い付き合いですが、流血や苦痛を伴うものは大の苦手とする男でしてね。たまたま、その女を眺めてやり過そうとしていたのでしょう」 「そうでしょうか? 失礼ながら恭太郎殿はまだお独り者ゆえ、妙な気を起こしていなければ良いのですが」  口振りから察するに、恭太郎を案じているらしい。  虎之助に話を持ち掛けたのも、言外に今のうちに釘を刺しておくべしという親切心からだろう。  恭太郎に限って、おなごに手を出すというのは考えにくいことだったが、一応は確認しておくべきだろう。 「わかりました。折角のご忠告だ、杞憂に終わればそれで良し、それとなく話を聞いてみましょう」 「そうして頂けるとありがたい。正直なところ、私以外にも奇妙に思っている者がいるものですから」  そうして、男は一礼して帰途に着いたのだった。    ***    そういう懸念は無用と考えていたのが、いざ恭太郎の様子を具に窺えば、やはり問い詰めておいて正解だったと虎之助は思った。  ぼんやりと放心しているかのようにも見えたが、時折微かに熱の入った眼差しになる。  虎之助自身そこまでおなごに熱を上げたことはないが、淡い初恋くらいならば経験はあった。 「おまえ、自分では気付いていないのか? 好いたおなごの話をしているようにしか見えんぞ」  ずばり言ってやれば、恭太郎は戸惑ったように視線を逸らして俯く。 「流石にその娘は駄目だ。囲い者にするにも角が立つぞ」  正妻に収まることが難しい場合、気に入った娘を別宅に住まわせ妾奉公させることも間々ある。  大身の武士のみならず、大店の主人にもそのような妾宅を持つ者はたまにいた。  妾宅を構えるには随分と金も掛かるため、余程の財力がなければ妾を持つことは不可能だ。  元宮家は家中でも屈指の家柄。財力に問題はないだろうが、遊郭の女を身請けするのとはわけが違う。 「何の教養もなく後ろ盾もない、刑場の手伝いで暮らしているような娘と噂になってみろ。家名に瑕がつくんだぞ。おまえと、おまえの親父様にもだ」  そんなことになれば、父親である帯刀が黙ってはいないだろう。  思い直すよう宥め透かすほどに、恭太郎の面持ちは曇りを帯びる。  これは、と虎之助も眉宇を顰めた。 「おまえなら、家中の娘を選び放題だろう? 見合いでもすれば良い相手に当たるかもしれん。おまえも既に妻帯して子があっても良い歳なんだ、帯刀様だってそろそろと考えているんじゃないのか?」 「私だって、はじめからそんな気はなかったのだ。だが、こればかりはどうしようもない。ふと気付くと秋津のことを考えてしまっている」  そんな折に知ったのが、次の非人頭となる十兵衛の存在だった。 「十兵衛とかいう男には任せられない。いくら次の頭だとしても、秋津に無体を働くような男だ。そんなことならば、いっそ私が──」 「囲うというのか? 落ち着いてよく考えろ。それでそのおなごは本当に幸せか? おまえの一方的な想いで、今の暮らしから無理に引き離して良いのか」  元宮家を継ぐ以上、いずれ然るべき相手を正妻に迎えねばならず、恭太郎の今の想いが一体いつまで続くものかも、虎之助には判断がつかない。  互いに不幸な道行きになるように思えて、虎之助は辛抱強く諭したのであった。    ***    一つに束ねた髪に触れる。  刑場よりも少し上流の河原に水を汲みに訪れた秋津は、汲み上げた桶に張った水面にその顔を映した。  恭太郎が丁寧に梳いてくれた髪を眺め、懐に仕舞った櫛を取り出す。  歯の一本一本が滑らかに削られた逸品だ。  髪に通せばするりと流れるように滑る。 (こんなに良い物を、わざわざあたしなんかに)  やはり、返したほうが無難だろう。  物好きも度を越している。  恭太郎ほどの身分なら、周りには綺麗な着物を纏って髪も艶やかに結い上げた、美しい姫君たちが大勢いるであろうに。  朽ちて薄気味の悪い岩屋に住み、刑場での仕事で細々と糊口を凌ぐような暮らしをするおなごを気に掛けるなど、正気の沙汰ではない。  優しく髪を梳いてくれた、あの時の労るような手付きが、首筋に蘇る。  正直なところ、悩んでいた。  帰ってこいと言われているうちに、長屋へ戻ったほうが良いのかもしれない。  十兵衛がああして気に掛けてくれているから、まだこうして生きていられるのだ。  それがなくなれば、本物の無宿者となってしまう。  恭太郎はどうも十兵衛に対して不信感を抱いていたようだが、秋津にとっては兄のようなものだ。  兄妹のような関係が夫婦に転じたとしても、信頼は揺るがないだろうとも思う。 (でも、なんで──)  あの時、恭太郎の腕に掻き抱かれるように捕らわれていた。  初めこそ意気地のない惰弱な男と侮っていたのが、思っていたよりもその力は強く、頬に押し当てられた胸も厚く広かった。  ただただ驚いたが、不思議と嫌だとは感じなかった。  本来雲上の存在にも等しい身分を持ちながら、足繁く通い、手土産にまで気を回し、気さくに話し掛けてくる。非人の自分にとっては面倒な相手だと思っていた。  何故、唐突にあんな行動に出たのか。  その理由を探しても答えは出ない。  十兵衛に不信感を抱いていたようだから、或いは心配の余りに抱き締めてしまったのか。 (勘違いなのか、って言ってたっけ)  何を以てそう言ったのかは判然としないが、きっと恭太郎は思い違いをしている。  長い間考え込んでしまったが、秋津は取り留めもなく脳裏に沸き上がるものを打ち消すように立ち上がった。  水を張った手桶を抱え、御堂の方へ足を向けた、その時だった。  御堂のある山の麓に、濁った黒雲が掛かっている。 (雲──?)  違う。  鬱蒼とした木々の間から立ち上るそれは、低い雲などではない。 「火事!?」  気付くや否や、秋津はその場を駆け出していた。  見る間に広がる黒煙の勢いから、堂宇が焼けているのだと分かる。  ともすれば周囲の木々にまで延焼し、山火事にまでなりかねない。  早く番所に通報しなければ、と思うと同時に、秋津ははたと気付く。 (短刀を置いたままだ──)  いつもは懐に入れていたのが、今日は何となく代わりに櫛を忍ばせていた。  だが、幸か不幸か短刀は岩屋の中だ。  火の手が回るまでにはきっと猶予がある。 「火事だ! 御堂が火事だっ!! 誰か、誰か番所に──」  街のほうへと走りながら、秋津は声の限り叫んだ。  人通りの多い城下の街中に駆けていくにつれて、往来の町人たちが秋津に注目しては騒めく。 「どうした、何事だ」  通りをこちらへ歩いて来た侍が、駆け行く秋津の前に立ちはだかった。 「刑場の近くの御堂だ、煙が上がってる! 早く火消しを……!」  御堂の方向を指差しながら、秋津は思わず侍の袖を掴む。  侍はそれを咎めることなく秋津の指し示すほうを仰ぎ見て、その顔を顰めた。 「あれは……、煙か。よく知らせてくれた、すぐに火消しを呼ぼう」  その一言で、秋津は再び踵を返し、今度は黒煙の立ち上る御堂のほうへと走り出した。 「あっ、おい! 一人で行くのは危険だぞ!?」  後ろで侍の声がしたが、秋津は耳も貸さず御堂へと急いだ。     【第八章へ続く】
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