ありきたりな女④

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 それはつまり、もう、三浦謙のモデルにはなれないと言う返事なのか。そしてまたそれを聞き返せない自分もなんなのか。  三浦は思う。どうも最近、臆病になったものだなあと。何かを沢山得てきたと思うし、それと同じように失いもした。だが得る喜びも知っていれば、失う悲しみも如何ほどか良く知っている。  その痛みを回避する方法も沢山知り尽くしてきたからこそ、ここのところ『痛さ』とは無縁だった気がしたのだ。それが、ここに来て『もう嫌です』と言われるのが怖いから、黙って見過ごすだなんて――。  まさかこの女性を目の前に、こんな男になっている自分を見てしまうとは思わなかった。 「先生。次は来週ですね。それまでに事務所に行って契約してきます。あの、その時ご報告した方がよろしいですか」  ガラス棒をりんと弾いた声が、玄関に響いていた。  三浦はやや目を丸くしてしまい、暫し、多恵子を見つめてしまっていた。 「先生?」 「い、いや……。はい、来週の火曜日、また十時からお願いします。あ、貴女もご家庭が大変でしたら遠慮なく申し出てください。なにせ私の方がふらりとしている気ままな絵描き。いくらでも予定を合わせますよ」 「そんな。先生だって本当は忙しいでしょうに」  彼女が初めて可笑しそうに笑いだした。なんとも愛らしい笑顔だった。別に、特別な可愛さというわけでもなく、どこか懐かしい、近所の知り合いの年下の女の子が笑ったような、よく見たことある笑顔。 ――ああ、もしかすると、僕は……。
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