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『別れた奥さんがいる広島まで先生を帰らせたのは、多恵子だと藤岡さんも言っていた。先生はお前に絶対に見て欲しいに決まっている』
夏のざわめきの中、多恵子は立ち上がる。大通公園から側にある地下街に降りる階段へと急いだ。
がらりと作風が変わっていたんだ。多恵を描いてくれていた雪子とはまったく異なる色彩でタッチだった。背景は鮮やかな青で海、まるで南国。
そこに、ややふっくらとした長い黒髪の裸婦。もの凄く鋭い目つきで、堂々としていてまるで女王のようだった。でも。隣りに飾られているお前が、青い裸婦の鮮やかさに霞むかと思ったら、そうでもなかった。不思議な感覚。先生は確かにお前をお前として描いてくれていたんだって実感できたんだ。それは感動でもあったよ。
オレンジ色の路線に飛び乗ると、多恵子の耳にはずっとずっと充の声。
お前、いつまでそんなお嬢ちゃんみたいな『偶然』とか『いつかは』だなんて夢見がちなことを言っているんだ。白いワンピースを後生大事に持っていたお前らしいな。ワンピースを持っていれば、また若かった頃のように輝けると思っていたんだろ。
『偶然』とか『いつか』が絶対にあると言えるのか。二度と、先生が描ききった多恵を見られなくてもいいのか。本当にそれでいいのか。『ずっと前のワンピース』に『いつか偶然に会えたらいい』、そんなことばかり、お前の今はどこにあるんだよ。
あの雪子がそれなんだろ。だから脱いだんだろ。なにもかもかなぐり捨てて。夫の俺も捨てて。脱いで裸になっただけで何かが分かった、そこでお終いでいいのか。その眼で脱いだ自分を、先生が映しだしてくれた自分をしっかり見てこい。
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