俺のマリア様

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 アラフォーにしてロスジェネ世代、好景気を知らずに不況の時代をひたすらに生きて来た市村龍一。これも運命か、彼はAV黎明期に思春期を送り、中学生になってからAV女優に興味津々になったが、当時はまだインターネットがほとんど普及していなくて市村家もまだインターネットを始めていなかったし、エロ本もAVも買えなかったから観れっこない上、彼女も出来なかったから欲求不満が溜りがちだった。  高校時代はもっと欲求不満が溜まった。それと言うのが進学した高校が工業科でほぼ男子校と言って良く女子生徒と触れ合う機会がなかったし、中学時代と同様AV女優の写真もビデオも全く観れなかったからだ。  高校卒業後、龍一は工場従業員として或る中小企業に就職した。1996年のことだった。で、社会人となったのでビデオレンタル店に行ってAVを借りたり、本屋に行ってエロ本を買ったりするようになると、AVオタクになった。  彼は元々女に持てるタイプではないし、前述の通り高校時代ほぼ男子校と言って良かったから女子と交際したことがない上、AV女優のようなナイスバディな女と関係が持てる訳がないからAVに嵌るしかなかった。  しかし、どうしてもレンタル店や本屋に行く度に恥ずかしい思いをするから1998年からインターネットを始めた。二十歳の時だった。で、恥ずかしい思いをせずにAV女優の画像や動画を観れるようになったので市村は益々AVに嵌って行った。  しかし、彼が25歳を過ぎた頃から見るに見兼ねた父がこんなことではいかん!歯止めを掛けなければと見合い話を彼に持ち掛けた。  龍一もこのままではずっと童貞を卒業できないと思っていたので見合いを受けることにした。  相手は父の同僚の娘で名は香、歳は23、団子鼻で丸顔で体もふっくらとした感じの十人並みの女だった。  龍一は可成り面食いだし、香が性欲の湧くタイプではなかったから何とも味気ない気がしたが、折角、父が自分のことを心配して持ちかけてくれたことだからと元々人の良い彼は、義理を感じて香を受け入れ、香も龍一が定職に就いているし、人が良さそうだし、男に持てるタイプではないと自覚しているから龍一を受け入れることにした。  交際中、龍一は女性と付き合うのは初めてだったから兎に角、初心な青年のように緊張した。却ってそれが香に誠実な印象を与えた。  交際は不慣れで不器用同士、極真面目に進み、お互い別に好きでもないのに二人きりで乗るボートから降りたくても降りられないように、将又、漕いで行く流れに流される儘といった感じで一緒になった。  結婚生活は妥協に次ぐ妥協、砂を噛むようで平々凡々として実に刺激が無かった。  それでも龍一は27歳の時に香との間に子供を授かり、子煩悩になった。で、気が紛れて良かったが、それも長くは続かず刺激のない毎日に飽き飽きして自分の部屋に籠ってAVを観る頻度が増して行った。  彼は元々AVオタクと言っても変態的ではなかった。絡みはそんなになくていいから出来ればAV女優のスタイルをしっかり拝めるイメージビデオ的シーンを常に期待していた。しかし、AVは年々過激度を増して行き、AV女優は泥裡に土塊を洗うが如くこれでもかという位にありとあらあゆる醜態を晒すようになって行った。  だからAV女優に対する軽蔑心は我慢ならない程、募って行き、これじゃあ色気もへったくれもあったもんじゃない、昔のポルノ映画なんかは絡みのシーンにも情緒があったり、いい意味で生臭さがあったり、泥臭さがあったりしたが、そういうのもない、只あっけらかんとして人間臭さがない、無味乾燥だとして若い頃、好きだった昔のエロいのしか観なくなって行った。  そうして37歳の時だった。偶々スカパーを視聴していたら1983年にテレビ放送していた「新ハングマン」という番組の再放送にぶち当たって冒頭シーンを観ただけで龍一はおっと唸り、一気に惹きつけられた。レオタード姿でエアロビする女。クレジットタイトルを見てピンと来た。マリア役「早乙女愛」父が好きだった女優だ。龍一は興味が湧いてDVDRに動画を焼くことにした。子供心にも父が早乙女愛についてなんてルックスもスタイルもナイスな女優なんだ!甘い声も心が蕩けそうで峰不二子の声優をやるとイメージがばっちり合致するんだがなという主旨の話をテレビを観ながらよくしていたのを覚えている。確かに毎回「新ハングマン」を観る度にこんな声も喋り方も色っぽい女は今時いないし、こんな大人な感じの女も今時いないし、今観てもこんな洗練された印象を受けるスタイルとプロポーションを兼ね備えた女優が30年以上前にいたのかと驚き、ルックスもこんな癖のない気品のある整った顔は今時ない、横から観ると、額、瞼、鼻の頭、頬、唇、顎すべてが円やかな丸みを帯び、まとまり感のある﨟長けた美顔であるのがよく分かると龍一はその他の女には感じられない甘い繊細さ麗しさ瑞々しさに溜息をつきながら感じ入った。  で、彼はインターネットで早乙女愛のことを調べる内、ヌードになった画像が出て来たので、おーすげーとこの時ばかりは景気よく唸って、「早乙女愛ヌード」と検索してみると、結構ヌード画像が出て来た。  こんなに美人で而もおっぱいが大きくて美しさに於いて円熟の域に達した膨らみがロケット型で扇情的な乳首や乳輪と相まって堪らなくなるくらい刺激的だ。顔と乳房の高次元の両立、これは中々ないことで最強の組み合わせだ。ほっそりとした肩、突き出た胸、この対比がまた他に求めようがなくて絶妙なバランスだ。ウェストも程よく括れ、流れるようなカーブを描き、脚がすらりと伸び、顔がちっさくて背が結構あるからほぼ八頭身だ。それに二十歳になる前の写真と比べると、それはもう奇跡的と言って良い位、実に良い具合にシェイプアップされていて十代の頃より頬の肉が程よく削げてシュッとした顔立ちになり、おっぱいが大きくなって女らしく艶めかしい丸みを全身に亘って帯びて、それでいてスリムになっているのだ。天は二物を与えずと言うが、絵に描いたような富士額を持つ正統派美人でありながら均整の取れた秀抜なナイスバディの持ち主。全く嬋娟たるもので超セクシーで超カッコイイ感じだ。表情も驚く程、多彩でやや吊り上がった鋭い目を気弱げにして内気で繊細な感じになるかと思えば、爛々と輝かせて底抜けに快活な感じになり、上品にこじんまりした愛らしい厚めの唇を軽く結び、少女のように可愛らしくなるかと思えば、口角を微妙に上げて魔性を漂わす妖艶な女になり、百万ドルの笑窪を覗かせた優美な笑顔になるかと思えば、モナリザのような謎めいた微笑になる。表情のみならず演技力があって女優ならではの気韻を感じさせる最後の女優らしい女優。見た目だけに絞って早乙女愛に比肩できる女と言えば、総合的に見て全盛期のブリジットバルドーくらいかな。嗚呼、これぞ絶世の美女、これぞ大人の色気、これぞいい女、そう強く感じ入った龍一は、今まで良いと思っていたAV女優が早乙女愛と比べると、全て見劣りするし、いい女の代表格とも言える藤原紀香であっても早乙女愛と比べると、ごつい感じがして女子力が低く感ぜられ、子供っぽく見えるし、今時のアイドルや女優に至っては早乙女愛と比べると、全く子供に思え、そもそも今時の女は柔らかい物ばかり食べて育って下顎が発達していないから顎がとんがり出っ歯の傾向がある上、今時の流行り顔に間延びした無機質でのっぺりした軽薄な、矢張り顎がとんがった出っ歯な癖のある印象を受けるので早乙女愛以外の女が糞に思える程、早乙女愛にぞっこんになった。そして早乙女愛のヌードシーンが拝める映画をネット配信する動画を三つとも買い、早乙女愛のヌードが拝める写真集も二冊とも買った。で、もっともっとぞっこんになった。その素晴らしい外観も然ることながら早乙女愛出演の映画「北の蛍」を撮った五社英雄氏の早乙女愛についてのコメントが写真集に載っていていみじくもこう述べているのだ。  上っ面だけの格好良さ、上っ面だけの美しさ、そんなことばかり追っかけてる薄っぺらな女優って大嫌いなんだ。好い加減にしろと言いたくなる。ところが、愛ちゃんは全然違う。綺麗事では演じない女優なんだな。何をするにも体ごとドーンとぶつかって来ると。  早乙女愛自身も或る雑誌でこう述べている。  女優の原点は欲に対する演技だと思います。言い換えれば女に生まれたことに対する執念を様々な角度から掘り起こす感情発掘人みたいな仕事と。そして写真集も男に感じてもらえる本にしたいと述べている。  正に龍一は早乙女愛の写真集を撮った野村誠一氏の言うひたむきさから滲み出る美しさだけでなく現実に持っている女の欲望を綺麗事で誤魔化すことなく赤裸々に体現して見事に演じた早乙女愛に女の情念を感じ、男の情念に駆られ、すっかり参ってしまい、これまで抱いていた理想の女性観が根底から覆されたのだ。  それからというもの龍一は早乙女愛に今時の女にはない人間味と女としての重みを感じ、早乙女愛でないと抜けなくなった。他の女をおかずに抜けたとしても必ずその女の早乙女愛に似た所を見つけ出し早乙女愛を思いながら抜くのだ。でないと抜けないのだ。斯様に掛け替えのないスペシャルな存在になったから嗚呼、俺のマリア様と彼は香の横の床で寝言を呟くことがある。夢の世界で早乙女愛に会っているのだろう。夢の世界であれ、覚醒の世界であれ、生きた体験に違いなく彼は幸せの只中にあるに違いない。色即是空、彼は時空を超え、縁起によって早乙女愛と出会うことが出来るのだ。  彼はもう妻とセックスレスでも早乙女愛のお陰で欲求不満にならないと言いたいところだが、今時の大胆に脱ぐ女優を観ると、もう少しだけで良いから大胆に脱いでほしかったと早乙女愛に対して思うのである。だから欲求が満たされ切れず早乙女愛の代わりになる女をネットで探すのだが、どうしても条件が揃う女がいない。今はスタイルが良くて胸が大きい女が増えたが、顔が伴う女がいないのだ。前述した通り大抵、出っ歯気味だし、へらへらしている所為か、顔に締まりがなかったり、軽薄な所為か、表情がだらしなかったりする。昔は凛とした端正な顔立ちをした美人がその時々の芸能界に一人や二人いたものだが、今はいないのだ。松田聖子のような飛び抜けて可愛いのもいない。だから不満の鉾先が早乙女愛が活躍していた頃の写真家や映画監督に向き、自分が写真家だったら或いは映画監督だったら早乙女愛のポテンシャルの高さを引き出してスタイルとプロポーションの良さをもっともっと活かすんだがなあと残念に思うのだ。  残念と言えば、1981年に公開された映画「北斎漫画」のお直役に早乙女愛が選ばれなかったことである。話はあったのだが、まだ脱ぐ気はなく断ったのだろうか?早乙女愛が初めて脱いだのは翌年の1982年24歳の時である。是非とも撮りたいという野村誠一氏の熱意に負けたと早乙女愛は述べているが、もし、早乙女愛がお直役をやっていれば、カンヌ映画祭でも早乙女愛の肉体美と官能美が話題を呼んで海外でも北斎漫画が上映される運びとなり、早乙女愛は世界的な大女優になったに違いない。然るに何故、あんな貧乳の樋口可南子にお直役をやらせたのか?お栄役の田中裕子が自分も貧乳なので早乙女愛がお直役をやるなら私は降りると突っ張ったのだろうか?当時、田中裕子は大人気女優で発言力があったに違いないからなあと筆者は想像するのである。  何もエロスじゃなくても三四郎の里見美禰子とか春琴抄の春琴とか或る女の葉子とか純文学作品のヒロイン役をやって欲しかったし、やれば新たな境地が開けただろうに、そういう役にも恵まれなかった。全く早乙女愛の思索的な美も引き出せる人物がいなかった訳だ。  歴としたロマンポルノ女優だった美保純が市民権を得て未だに堂々とタレントとして活躍しているのに鑑みて1983年に公開されたロマンポルノ映画「女猫」に主演したことで早乙女愛がファンにマイナスイメージを持たれたかどうか定かではないが、ロマンポルノらしいシーンは他の女優が演じているのであって早乙女愛自身が演じた濡れ場のシーンは非常に短く極ソフトなものだった。しかし、どうも汚点を残した感じが筆者には否めず、北斎漫画のお直役をやっていれば、運命ががらりと変わり、前述したようなことになって女猫如きB級映画に出演することはなかっただろうにと筆者は全く以て残念に思うのである。しかし、その後、早乙女愛は2本の映画で豊満な乳房をちらりと披露しているが、セクシー路線に嵌ることなくヘアヌードブームの時も脱がなかったし、これは欲目の評価では決してなく憚りながら審美眼で以て評価するのであるが、掛け値なしに新ハングマンに出演していた時の早乙女愛は色が白くて非の打ち所がない位、実に綺麗だった、そして42歳で女優を引退する最後の最後まで美貌とスタイルは健在だったと最後に述べておこう。          
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