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1 人降る塔
「ふぅ、面白かったな、この映画」
「本当? パパったらブルブル震えてたくせに」
そう言いながら美結は自分の肩を抱き、大げさに震えてみせた。
「そ、そんなことさいさ。なぁ?」
消え入りそうな声で、夫の吉彦が私に助け船を欲している。
「さぁね、どうだろう?」
「お、おい、優理子! そりゃないだろ」
「ちょっとパパ、あれ!」
美結が目を見開いて吉彦の後方にある部屋の隅を指さした。振り向いた吉彦の目に飛び込んできたのは間接照明の陰にぼんやり浮かぶ窓ガラス越しの老婆の顔だ。
「うぎゃぁ! 人、人が……」
吉彦は後方へ飛び退き、すぐさま私の袖口を掴んだ。その拍子に吉彦のかけていた度の強い黒縁の眼鏡は片耳から外れ、大きくずれて少し間抜けた形になった。
「きゃははは、パパ、ウケる」
「え?」
吉彦は眼鏡を定位置に戻し、恐る恐る窓に近づいた。そしてスライドして開けた窓から腕を伸ばして何かを掴み、それを私と美結が座っているソファの空いた空間に投げつけた。老婆がにっこり微笑んでいる老人ホームのカタログがぱらりと美結の足下で開かれた。このタワーマンションの四十八階にある高級老人ホーム【安らぎ園・千奈牧】のものだ。
「こんなものを外に置くなんて……心臓が止まるかと思ったぞ!」
「だってパパの反応、いちいち面白いんだもん」
美結がペロリと舌を出す。全く反省はしていない顔だ。
吉彦が切なげな目をして無言で私に苦情を申し立ててくる。夫は昔からホラー映画が苦手なのだ。なのに娘や私の前だと必死にそれを隠そうとする。明らかにバレバレなのに。男の小さなプライドというやつなのだろうか。少し情けなくもあり、私にとっては少し可愛いところでもある。
今日のような特別用事の無い金曜の夜は、録り溜めた中から家族水入らずで映画を観るのが我が沢口家の恒例になっている。私にとってとても幸せで大切な時間だ。
コメディやドキュメンタリーを観たい吉彦とホラーが好きな美結、そしてアクションやサスペンスを押す私で、毎週懲りずに必ず揉めてしまう。
そして結局、今夜も可愛い娘の美結に押し切られた格好だ。
吉彦は十四歳になったばかりの一人娘にめっぽう弱く、あまり叱ることが出来ない。そのとばっちりを受けるのは常に妻である私だ。まぁ夫が美結にいいように扱われているのを眺めているのも悪くは無いが、もう日付が変わる時刻。これ以上夫を怒らせて近所迷惑になっても困る。先月は映画のボリューム音の件で隣家の忍野さんから壁ドンされたばかりだ。
まぁその隣人にしても少し変わった人で、実は一度もまともに顔を見たことが無い。相手の希望により入居の挨拶や苦情への謝罪はすべてドア越しで行われたのだ。管理人からの情報によると中年男性の一人暮らしらしい。はじめは気味が悪いと思ったが、声の感じは悪くなかった。きっと、そういう人なのだろう。
所詮マンションなんて他人の集合体だから、色んな人がいて当然だと思う。
それになんていったって、今夜はまだやる事があるのだから。
「もう、美結ったら。パパをからかうのもいい加減にしなさい」
「はぁい」
美結は素直に返事をした。
「……そろそろ寝るぞ」
吉彦はふてくされた声で洗面所へ向かう。私は時計を一瞥して、娘の美結に目配せした。
「ゴー、ヨン、サン、ニー、イチ! 誕生日おめでとう、パパ!」
そう言って、美結は吉彦の背中に思い切り抱きついた。
ドーン!! ダン、ダン!!
ベランダの方から大きくて鈍い音が響いた。
大砲か、まるで巨大なクラッカーを鳴らすかのような音に、思わず反射的に美結を見た。
「違う違う、知らないって」
美結は慌てて首を左右に振る。その見開かれた目を見るとどうやら本当に美結の仕業ではないらしい。
では何ごとだろう?
こんな時間に花火でもあるまいし。
「おい、美結! お前またなんか……」
怒りを滲ませた声とは裏腹に、振り返って娘を見る吉彦の目尻はずいぶん下がっている。
「だから、違うってば!」
美結は吉彦の背中に回した両手をあっさり解除し、ベランダに向かった。
少し淋しげな吉彦に苦笑いしつつ、私も娘の後を追った。
「うわ」
「きゃぁ!」
窓を開けるまでも無く、そこにあるものは明らかだった。
暗闇の中、こちらを向く二つの光。人間の目だ。
今度は本物の老婆がそこに倒れていた。
落下する際にぶつけたのだろう、首と足があり得ない方向に曲がっている。
「あな、あなた! 警察! いや救急車、電話! 早く、」
呆然としてその場から動けない吉彦に苛立ちながら、私は再び叫んだ。
「は・や・く!」
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