エモいとオモい

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「だからさあ、エモい記事たのむよー。これ、オモいだけでしょ」 電話口から大きな声が響いている。 スピーカーホンにしているのに、となりの猫はすーぴーと寝息を立てて眠っていた。 「だってさあ、これ最後まで読めないよー。ほら、あの『海底を掘って埋めた脳みそが腐っていく感覚』とかさあ、ほんと暗いし。わかんないし。海底行ったことないし。脳みそだけ埋めるって、もうアニメでしょ」  いつもの電話。 耳のいたい話が続く。 言葉はきついが、書き直しを何回も頼んでくれるし、指摘も的確。ありがたい、のひとこと。そんなこと、わかっている。 なのに、ぼくは彼の言う『エモい』がいったい何なのか、いまだによくわからない。 ぼんやりと返事を続けていたら、電話はいつのまにか切れていた。 エモいってなんだ。エモい。えもい。エモーショナル。センセーショナル。ナショナル。サスティナブル。ブルブル。ブルー。ブルース。プルースト。トースト。発酵バター。はらへってきた。 先が見えない。 「OK Google。エモいってなに?」 ぼくは、ぼそりとつぶやいた。 「候補が挙がりました。順番に再生します」 女性の平坦な声が聞こえると、スリープモードだったはずのパソコンが勝手について、ひとつの動画が流れ始めた。 うす暗い画面。 静かな音楽。 映しだされたのは、古びた民家の土間だった。 その奥に、白い肌着風のシャツを着た男性が、股を広げ、背中をまるめて座っている。後ろから回り込むカメラワークで、背後から正面へ。70代ぐらいだろうか。もともと彫りの深そうな顔に、自然なシワが刻まれている。 電動ろくろに向き合った手の中には、伸びては縮む土のかたまり。ろくろの回転に合わせて、白髪まじりの頭が小刻みに揺れている。男性の手はゴツゴツと骨張って見えたが、やさしい熱を感じさせた。 首元に三個並んだ茶色のボタンが、小窓から差し込む光を反射している。 手仕事がまとう、静謐な時間。 その心地のよさに、しばし見入る。 と、突然、ドンッ、ドドドンッ、ドドドドンッと、扉を激しく叩く音がした。 男性が振り返る間もなく、木の扉は蹴倒され、二人の男がじゃらじゃらと音を立てながら入ってきた。首や腰に巻いたチェーンの音だろうか。やけにうるさい。手には小さな缶コーヒーを持っている。 「おい、じいさん。今日こそ返してもらおうか」 男の一人が卑しい目つきで罵声を放つと、もう一人が等間隔に置かれた棚板の上の素焼きの皿を、一枚ずつ下に落とし始めた。 バリン、バリン。 繊細に形づくられた作品が、無残にこわれていく。 「土が土に戻るだけや。けど、これつくるんもお金かかってんのやろ? お金払わんでつくられると思ってんの?」 もう一人の男は汚れた笑みを浮かべると、棚板に並んだ素焼き皿に缶コーヒーを傾けた。ぐんぐん染み込む濃い茶色。皿に品のない模様が浮かび上がった。 白いシャツの男性はただ、ろくろの前で目を閉じて、唇をきつく噛みしめていた。 「いや、オモっ!」 ぼくは思わず動画を止めた。 「これはオモいのほうだろう、きっと。ベタだけど」 大きな深呼吸の後、ソファにごろりと寝転がる。 仰向けになったり、うつぶせになったり。ゴロゴロ転がる。 エモいってなんだろう。頭がぐるぐる回っている。 ガチャリとドアの開く音がして、出かけていた妻が帰ってきた。 妻はただいまーと言ったあと、ぼくのゴロゴロぶりを見て露骨に顔をしかめたけれど、興味はすぐに別のほうへ移ったようだった。自分のやるべきことをテキパキと済ませている。 ぼくはひとりごとのように、さりげなく妻に聞いてみた。 「なあ、エモいとオモいって、どう違うんかなあ……」 「へ? そんなの、後味が違うんじゃないの? 知らないけど。そんなことより、また用事あるから出かけるね。あとよろしくね」 妻はさらりとそう言うと、風のように去っていった。 「後味、か……」 そういえば、さっきの動画、途中で止めてしまったな。後味はよくなるのかもしれないな。もう一度見てみようか。いや、でもあれ、しばらくきつそうだよな……。 迷っていたら、幼稚園から帰った娘がリビングに走り込んできた。 「ただいまーっ!」 娘は大きな声で叫ぶと靴下のまま、ぼくの仰向けの腹に飛び乗った。 「ぐぶっ」 みぞおちに膝が入り、変な声が出る。 「ねえパパ、ただいまあ」 「うん、おかえり」 屈託のない笑顔に、思わず顔がにやけてしまう。 「ねえ、パパ? だーい好きだよ」 「パパもだよ。ぐびぇ」 娘は、ぼくの腹の上で容赦なく飛び続ける。 ふたつ結びの髪の毛がピョンピョンと跳ねて愛らしい。 「幼稚園たのしかった?」 「うん、とーってもたのしかったよ!」 そうか、よかった。よかったな。 「あのね、ちーね。パパのこと、だーいすき。このせかいで、800番目にだーいすきよ!!」 娘はとびきりの笑顔で、そう言った。 ぐえっ、ぐぶっ、ぐぼっ。 目頭が熱くなる。800番目か。 温もりのあるかたまりが、胸の深いところから首元へ込み上げる。 うまく言葉であらわせない。 これか、これなのか? エモいって。 腹の上で飛び跳ねる20キロに耐えながら、ぼくはあの言葉のわずかな欠片を、もう少しでつかめるような気がしていた。 了
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