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「長い一日だった……」
トイレの鏡に映った自分の顔が少し縮んでいるように見える。
本来だったら今日なんかは入社式からの社内見学、歓迎会――およそ仕事らしい仕事はせず、同期とこの先深まるかわからない親交のとっかかりをつけたりして――。
あまり面白くはなさそうだ、と思ってしまう時点で、経緯や起こったアクシデントはどうあれ、俺にはこの一日みたいな社会人生活始動のほうが合っていたのかもしれない。
那須さんはじめ派遣社員のみなさんは鉄壁の時間厳守だそうで既に退勤している。朝の黙殺から一転、初手からのモンスタークレーマー遭遇に同情してくれたものか帰っていくときにはひと声かけてくれた。
直接雇用である宮代さんと俺で記録や報告、こまごまとした用事を済ませ部屋に施錠して退勤、で今ぐらいの20時前後。だいたいこのペースだとしたら、体力的に辛いというほどのことはないだろう。
「どう……するかなぁ……」
トイレ入り口に一瞬置かせてもらった、シュレッダーにかけた断裁紙ごみ二袋を回収しながらつぶやく。
会社に対しての期待値はもはやマイナスだが、人間関係についてはもしかしたら望むべくもない当たりをひけたのかも、と思ってしまう。
宮代さんを、好きになってしまった。たぶんタイプだとかそういうノリでは済まない深さで。
ノンケで、しかもメンタル状況がそれどころでない人に不毛なことだとわかっている。辛い環境に異分子が入って来た、未知数に期待しているだけだってこともわかっている。
それでも、少しでも役に立ちたい。今日みたいにかばってもらったことを喜んでいるのではダメだ。
この環境で、宮代さんの支えになるべく努力する――どうせ稼いで食っていかなければならないなら、エントリーシートを埋めるためにでっちあげた『やりがい』より現実的で、熱量のある目標じゃないだろうか。
「おや……初日はどうだったかな、崎谷君」
「……お疲れ様です」
早く済ませて施錠を待ってくれてる宮代さんのところへ戻っておくんだった。舌打ちしたくなる気持ちを抑えて会釈をする。
人事部はこのフロアだったのか、喫煙所からろくでもない見覚えのにやついた顔が馴れ馴れしく突き出していた。
「早速遅くまで頑張ってくれたみたいだね。
私の配属も悪くなかったってことかな?」
「まだ初日ですので。気を抜かず頑張ります」
「ハハハ優等生だ。宮代は君の好みだったか?」
こんな下種の勘繰りに図星をつかれて、顔色を変えそうになるなんて。
とっさに下を向き、手に持ったごみを引っ張り上げるようなふりをする。耳が赤くなっていないことを祈るばかりだ。
「宮代もなあ、女で勃たないなら男を試してみてもいいかもしれんな、
君はどうなの?」
「……今はまだ、とてもそのような余裕はありません」
あまりの言いざまにどう答えるのが正解なのかもわからないが、「たたない」は状況から考えて「勃たない」だろうな……。
プライバシーの極みのような、そんなことまで会社に把握され言いふらされている宮代さんに、絶対に俺の気持ちを知られる訳にはいかないなと改めて思い直す。この上更に余計な負担をかけるような事態は避けなければ。
「失礼します、
ごみを捨ててから施錠、退勤しないといけないので」
「なんだ、まだいいだろう。
何なら飲みに連れていってもいい」
歓迎会がわりに、宮代について詳しく教えてあげてもいいんだよ?
ねばつく視線で、声で、何故そんなことを俺に言うのか意味がわからないが、あまり宮代さんと結託されても困る、などと考えているんだろうか。何にせよお断りには違いない。感情の揺れを見せず反抗的な印象を与えないような言い回しをひねり出そうとしていたら、ふと片方の手から重さが消えた。
「人事部長、
私について崎谷くんに伝えておきたいことは自分で伝えますので」
「宮代……まあ、せいぜい仲良くやることだな」
「ご心配頂き有難うございます。
崎谷くん、もう施錠したいから荷物を持って出てくれる?」
ゴミ袋をひとつ引き受け、背中にそっと手を触れて、宮代さんは俺を促す。
また、助けられてしまった。
不甲斐ないのに、身体は現金にも心拍数を上げ喜んでしまっている。
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