第一章「野良犬」

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第一章「野良犬」

 ある夏の日のことだった。学生街にある喫茶店。窓の外は茹だるほど蒸暑く、ギラついた陽光が降り注いでいた。窓際の席に座る男は暑さを意に介す様子もなく、大学図書館で借りた学術書に目を落とし、目に留まった文章を裏紙に書き散らしていた。片手で支えているせいか、何度もページが閉じる。分厚いハードカバーの本が閉じる少し重めの音を繰り返し響かせながらも、男は一心不乱に文字を書き続けた。  喫茶店の片隅のテーブル席はクーラーが効きにくく、はじめは汗のように結露を発していたアイスコーヒーのグラスも、中身はとっくに氷だけになっていた。時折喉を潤そうとグラスを口元まで運んでは、飲み物がなくなっていたことを思い出し、惰性のまま数滴の水を注ぎ込んだ。  待ち人である女はいつも唐突に呼び付けては彼を待たせ、車を出させた。奨学金を貰い続けるために勉学に励まなければならないにも関わらず、男は不本意ながら女の意のままに従っている。  男は大きな丸眼鏡をかけていたが、前髪は目に掛かるほど長く、丸眼鏡に覆いかぶさっていた。眼鏡の奥には眼光の鋭い切れ長の目があり、一見女性にも見えるほど整った顔立ちをしている。男は極度の猫背であり、オーバーサイズのチェックシャツが異様な雰囲気をかもし出していた。そのうえ、シャツの素材は明らかに冬物で、第一ボタンまでしっかり留められていたのがよりそれを強調していた。唯一性別が判別できるとすれば、幾重にも折り曲げた袖から覗いた、微かに骨張った指の関節のみである。  待ち人が現れたのは、結露がテーブルに水溜りを作り、氷すら溶けてなくなった頃だった。来客を告げるベルの音が鳴り、彼は扉へとおもむろに視線を向けた。  ストレートヘアの長い髪。すらっと長い脚にフィットしたジーンズと厚底のサンダルを履きこなし、肩からは大きなカメラバッグと、見るからに服装に無頓着な男ですら名前の知っているブランドのトートバッグを下げていた。シンプルながら洗練されたその佇まいの女こそが待ち人だった。待ち人はこちらの姿を認識すると、迷いのない足取りでこちらへと向かってくる。  連れ立って人影が見えたが、知らない顔だったためタイミングよく入ってきた他人だと思った。しかし待ち人が近づいてくるにつれ、彼女がもう一人の手を引いているのが目に入り、思わず怪訝な顔になった。手を引かれている女も男の存在に気付くと、不愉快そうに目をひそめ顔を歪ませた。  開口一番、謝罪もなく待ち人は彼に告げた。 「車を出して欲しいの、山奥の廃墟まで」
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