第一章「野良犬」

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 待ち人の名前は魚住恵美(うおずみめぐみ)と言った。魚住は男の存在が見えないかのように、隣に座った女性と和気藹々とどのケーキを頼むか話している。女性は魚住の様子にも男の存在にも戸惑いを隠せないようで、細い目でチラチラと彼に視線を向けた。  彼女は骨張った鎖骨とほっそりと長い手足が相まって、おそらく巷では標準なのだろうが、病的なまでの痩身、という印象を与えた。水色のワンピースと白いショルダーバッグ、後ろでまとめられた髪は夏の様相を呈していたが、その上には外の猛暑とは不釣り合いなほど黒い長袖のカーディガンを羽織っており、うなじに張り付いた後れ毛がそのアンバランスさを浮き上がらせた。  注文が終わり人数分の冷水がテーブルに届く頃、ようやく魚住はようやく男へと向き直った。 「まずは紹介するわね、写真サークルの後輩で一年生、カメラ女子の久保田(くぼた)。こっちの目付きの悪いのが(あい)ちゃん。二年生だけど敬語は使わなくてもいいわ」  魚住の紹介に理由こそ違ってはいたが、二人とも眉をひそめた。  男は誰に対しても、苗字しか名乗ったことがない。魚住とはこれまでに何度も会ってはいるが、名前を呼ばれたのも今回が初めてだった。おそらく初めて出会った日に、レポートに書かれたフルネームを見ていたのだと推測された。 「恵美先輩、何でこの人は名前にちゃん付けで私は苗字なんですか。いつも紗彩(さあや)って呼んでって言ってるじゃないですかぁ」 「今更でしょもう、愛ちゃんで慣れちゃったから愛ちゃん。久保田で慣れちゃったから久保田」  それが言い訳であると、小山内だけが知っていた。魚住は断れない状況を作り出すのが上手い。今抗議したところで話がややこしくなるだけだ、小山内は怪訝な目を向けながらも沈黙を貫いた。その後も納得がいかない様子の久保田は魚住に抗議していたが、やがて意を決したように向かいに座る人物へと顔を差し向けた。 「……あなたのことは何と呼べば?」 「……小山内(おさない)」  男は喉を微かに震わせるように名乗った。久保田はその声の低さでようやく小山内を男性だと認識し、驚きを隠せない様子だった。必要最低限以下の挨拶を終えると会話は潰え、再び沈黙が訪れる。小山内にとって沈黙は普段ならば気にすることもない。彼の人間関係は極めて狭く、キャンパス内で話すのは教授を除いてほぼ魚住しか居ないからだ。しかし今回は全くの第三者である久保田から若干の戸惑いと気まずさ、そしてそれらを上回る強い嫉妬がうかがえたため視線を落とした。こうした状況下において、相手を刺激しないためにはそれが最善だと、経験則として知っていた。
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