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つい先日のことです。
急な出張で訪れたその町は、いかにも寂れた感じの地方都市でした。ちょっとしたトラブルで取引先に呼びつけられ、何とか理解は得られたものの、話が着いたころには、もう日もとっぷりと暮れていました。
こうなったら日帰りは諦めて、この町で一泊しようと腹を括りましたが、慌てて駆けつけたため、宿の予約も出来ていません。とりあえず、この町に一つしかないというホテルを紹介してもらって駆け込んでみましたが、申し訳無さそうな顔をしたフロント係に、"あいにくと本日は満室でございます"と断られてしまいました。そこを何とか、どんな部屋でもいいから、と必死の思いで縋りつくと、係の人は少し考え込んだ後、こう聞いてきました。
「普段使っていない一階のお部屋なら一つご用意できますが、それでもよろしいですか?」
「結構です。どんな部屋でも、今夜一晩泊まれればいいんで」
「あまり使っていないお部屋ですので、その……少々埃っぽいかもしれませんが、よろしいでしょうか」
念を押すように聞いてきたフロントに対し、こちらも念を押すように即答しました。
「構いません。大丈夫です」
「それでは、ご用意させて頂きます。少々お待ちください」
何とか宿が取れてほっとした私が宿帳に記入している間に、一旦フロントは奥に引っ込んで、暫くしてから戻って来ました。
「それでは、こちらがお部屋のキーでございます。ここの廊下をまっすぐ行って頂いて、右に曲がったところの101号室になります。浴衣等、アメニティは、お部屋の方にご用意しておきました」
礼を言ってキーを受け取り、部屋に向かおうとすると、あの、お客様と声をかけられました。
「あと、夜お休みになるときは、お部屋のカーテンは必ず閉めておいていただけますでしょうか」
「何故でしょうか」
「実は、その……窓がある側はご近所との距離が、かなり近くなっておりまして。カーテンを開けてしまいますと、プライバシーの点でお互いに色々と差しさわりが出てまいりますので……申し訳ございませんが、ご協力をお願い致します」
「ああ、わかりました」
部屋に入ると、確かに長いこと使われていなかった空き部屋のような少し埃っぽいような臭いがしましたが、耐えられない程のものではありませんでした。とにかく疲れていた私は、ホテルの一階で営業していた小さなグリルでカレーライスを食べると、あとはさっさとシャワーを浴びて寝てしまいました。
その真夜中、私は夢を見ました。
夢の中で、私はある光景を上から俯瞰するような形で目撃していました。私の眼下には、初めて見る大きな川が流れています。そして、その川に沿ってコンクリート製の歩道が延々と続いています。
その歩道を横切る形で、一人の男性が何やら匍匐前進のような動きで、土手の方向へと這い進んでいくのです。身体全体が鉛になってしまったような、いかにも重そうな動きで、ゆっくりと四本の手足を交互に使って、地面に腹這いになったまま、じりじりと前進しています。
ところが、よく見ると男の背中や肩や腰に、川面から延々と伸びた大小何本もの白い手が絡み付いているのです。
よく、心霊写真なんかで、水難事故の多発する場所で、海に飛び込もうとする人に向かって海面から沢山の手が伸びているような写真ってありますよね。あんな感じです。私には、それらの手が今にも男を川に引きずりこもうとしていて、彼はそれに抗って必死に陸側へと逃げようとしているように見えました。
「逃げろ!とにかく前に進むんだ!」
夢の中の私は、いつの間にかその男に感情移入していました。やがて歩道を渡り切った男は、今度は歩道に沿って続いている土手の法面を必死に這い上り始めました。男の身体には、まだ白い手がしがみついています。
「頑張れ!」
夢の中ですが、出ない声を振り絞って私は応援を続けました。なんとか法面を昇り切った男は、次に土手の上の地面を、やはり匍匐前進で横切り始めました。そして男の前方には、民家のような漆喰仕立ての壁が見えていて、胸程の高さの窓から黄色い明かりが漏れています。
男はなおも必死な様子で這い進んでいます。多分その窓から家の中に逃げ込もうとしているのではないかと私は思いました。
「もうちょっとだぞ!あと少しだけ頑張るんだ!」
漸く建物の土台まで這い進んだ男が壁に手を突いて這い登り、あと数センチでその手が窓枠にたどり着こうとした瞬間。
耳の傍で「ガチャン!」という音がして、私は一気に夢から覚めました。
気が付くと、私はホテルのベッドの上に上体を起こした格好で歯をがちがち鳴らしていました。汗でびっしょり濡れた背中が冷たく、私は思わずぶるっと身震いしました。
今の夢は何だったんだろう。なんだか薄気味の悪い夢だったが、あの男は何者で、結局どうなったんだろうか。そんな事をベッドの中で半身を起こしてぼんやりと考えていた私は、部屋の反対側の壁に目を止めました。
その壁には、一枚のありふれた絵(確かルノワールか何かのコピーでした)が掛けられていたのですが、どうやら紐が切れたようで、額縁ごと床に落ちていました。ガラスも割れているようです。私の目を覚まさせた、あのガチャンという音は、どうもこれが落ちてガラスが割れた時の音のようでした。
そのままにしておくわけにもいかないと思い、取り敢えず部屋の中のテーブルの上にでも置いておこうと思いました。ベッドを降りて、割れたガラスに気をつけながらその絵を何気なく拾い上げた時、私は妙な物を見つけてしまいました。
額縁の裏側に、一枚のお札が貼ってあったのです……
翌朝、チェックアウトした私は、ホテルの近所を少しばかり散策してから駅に向かおうと思いました。初めての土地で、昨日チェックインした時は日も暮れていたこともあり、周囲がどんな状況かは全く分かっていませんでした。
そこで初めて気づいたのですが、このホテルは大きな川のすぐ側に建っていたのです。ホテルの裏手は、殆どすぐに川沿いの土手に接していて、すぐ目の前が川になっていました。それを知った私は、折角だから川岸に沿って暫く散策してみようと思いました。
一旦ホテルから200メートルほど歩くと階段があって、土手から歩道へ降りる事ができました。
眼前に広がる大きな川を見た時、私は妙な感覚を覚えました。何故なら、その川も、そしてそれに沿って連なるコンクリートの歩道も、土手の風景も、全てが昨日私が見た夢の中に出て来たものにそっくりだったからです。
私が泊まった部屋は川の方を向いていて、当然ながらカーテンを開けると目の前に土手とその向こうに広がる大きな川が見えた筈でした。
(そちら側はご近所との距離がかなり近いものですから、カーテンを開けてしまいますと、プライバシーの点で……)
昨日のフロント係の言葉を思い出すと、これまた奇妙な感じがしました。窓の前はすぐに川沿いの土手になっていて、もともと他の建物が立つ余地など無いのです。あとは対岸の建物ということになりますが、川幅も広いから向こう岸までは相当な距離があって、とても対岸の建物の部屋の様子など見ることは出来ません。
何故、彼はあんな嘘を吐いたのだろう……私にはわけがわかりませんでした、
物思いに耽りながら、川べりの歩道をホテルの方向に向かって歩いていると、地元の人と思われる一人の初老の男性が、歩道の端にしゃがみこんで何やら手を合わせています。彼の前には、小さな花束とジュースが二本、あと何やら小さな菓子の箱のようなものが見えました。
だんだんと近づいた私がその側を通りがかると、彼も私の気配に気づいて目を上げました。何となく気になったこちらが会釈をすると、男性も立ち上がって挨拶をしました。
「どなたか亡くなられたんでしょうか。いえ、私はこの町は初めてなもので、ここら辺の事情をよく知らないのですが」
何気なく聞いてみたところ、一瞬眉を顰めた男性は話を始めました。
「一年ほど前のことですがね、ここで一家心中があったんですよ」
「一家心中ですか?」
「ええ、父親の運転する車で川に飛び込んだんです。両親、子供二人の一家四人でね。子供なんかまだ、五歳と三歳だったんですよ……まったくねえ。通報があって、レスキューが駆け付けたけど、引き上げられた時には、もう全員駄目でね……でも、土壇場でやっぱり命が惜しくなったんでしょうかね。脱出しようとして必死にあがいた跡があったそうですよ……」
一家四人が死ぬ間際の車内の情景を想像すると、私は思わずぞっとしました。
「自分でやっていた小さな商売が立ち行かなくなった挙句の、無理心中だったって話ですけどね。でも、どんな事情があったとしても、そんな小さな子供まで道連れにするなんてねえ……本当に酷い話ですよ。あんまり子供さん達が不憫なもので、こうやって時々花とお菓子を供えてるんです」
「そうですか……」
私にも似たような年頃の娘がおります。小さい子供達が巻き添えにされたという話が何とも痛ましく、私も思わずその場で手を合わせました。
そこからもうほんの少しだけ歩道を歩くと、丁度私の泊まったホテルの部屋の真下に出ることが出来ます。どうせならそこまで行ってみようと思って、ゆっくり歩を進めながら、私は色々と想像をめぐらしていました。
多分、その父親は車が飛び込んだ時、妻子の悲鳴を聞いて、とてつもない後悔に襲われたことでしょう。我に返った彼は家族を助けようと、開かないドアを必死に押し開けようとして……妻子を何とか救う為に、今更遅すぎる虚しいあがきをして……
それにふと重なってきたのが、昨夜の夢の中で見た男の姿でした。重い手足を必死に動かして川から道へ、そして灯りの漏れる窓へと這い進もうとしていた姿……あれは、ひょっとしたら、未だに川底に迷い続けている家族の父親だったんじゃないだろうか……
彼は、妻子を助けようと川から出て来て、岸壁を必死に這い上がってきたんじゃないか……そして、どこか民家のある方へと向かおうとしていたんじゃないだろうか。来る当てもない助けを呼ぶために……”子供が溺れています。助けてください。子供が凍えています。毛布をください。お願いです。助けてください。私達を助けてください”……
そして、川面から彼に延びていたあの大小の手……あれは、彼を”引きずり込もう”としていたのではなくて、”引き留めよう”としていたんじゃないか……
”あなた、もういいから”、”お父さん、もういいよ。ここにいてよ”、”ここで四人で暮らそうよ”……
重苦しい情景を想像しながら、川岸の歩道を歩いていた私は、とうとうホテルの真下に到着しました。そして、ぞっとするものを見てしまったのです。
川底のヘドロを思わせるような真っ黒な手形の跡が、岸壁からコンクリートの歩道と法面を伝って転々と続いていたのです。そしてそれは、土手を横断し、まさに夢に出て来たような漆喰仕立てのホテルの壁にまで続き、私が泊まっていた部屋の窓枠のすぐ下、ほんの数センチのところで途切れていました……
夢の中で、必死に這い進んでいたあの男……私は彼があと少しで”ゴール”にたどり着くというところまで、まるで自分のことのように応援していたわけです。
もし、あそこで夢から覚めず、最後まで応援を続けていたら、どうなっていたんでしょうね……
[了]
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