エピローグ

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エピローグ

 気がつくと、あの廃駅に着いていた。 (ひとりで、帰って来てしまった)    大きな喪失感に襲われ、アリカが呆然と列車から降りると、見たことのある女性が立っている。  「ごくろうでした。アリカ・イチヒノ」 (なぜ、彼女が?)    あのヒグマの寮監だ。  わけがわからずアリカが狼狽していると、彼女はアリカの肩を軽く叩いた。 「これでエルアード刑事の身柄を確保できます。我々は彼を、人間界に違法薬を横流ししていた疑惑でマークしていました」  「あ、あなたは……?」 「わたしは地下牢の前看守です。ラースランド警察に頼まれ、寮監として人間界に潜伏していたのです」  ガトーが言っていた不在の『トロール』とは彼女のことだったのか。  アリカは驚いた。 「同じ種族の犯罪をわたしもなんとか阻止したくて、あなたを利用する形になってしまいました。申し訳なかったわ」  彼女は小さく破顔した。 「でも、どこでエルアードさんの犯行を見ておられたのですか?」 「いたのよ」    寮監が指をぱちんと鳴らすと、アリカの髪をくくっていた深緑のゴムがするりとほどけ地に落ちた。  にょろにょろと葉を生やしながら蠢く生き物を、寮監がすばやくつまむ。  アリカは思わず頭に手をやった。 「会話を盗み聴きする蔦の妖精なの。『語り部(フィラ)の森』のニワトコと似たような植物ね」  ただしこちらは、盗聴器の役割も果たすという。 「ということは、わたしの今までの会話……」 「任務にプライバシーなど存在しません」  青くなるアリカにぴしりと言い切る。    そのまま寮監は手を上げると、列車のタラップに乗った。 「さあ、わたしはこれから忙しくなるわ」 「妖精界にもどるんですか?」  何か言いたげなアリカを見て寮監は小さく笑う。 「学園にはあなたのこと、よろしく伝えておきましょう。ほかに訊きたいことはあるかしら」 「あの、特別捜査官採用者は王立警察学校(アカデミー)を免除されるというのは」 「ありえません。きっちり受けてもらいます」  三角眼鏡の奥はまた、もとの厳しい眼にもどっていた。  一ヶ月遅れで、アリカは王立警察学校(アカデミー)へ入学した。  一連の事件は口外しないよう釘を刺されていたにも関わらず、席についたアリカはクラスメイトから質問攻めに遭った。 「刑事が犯人だったんでしょ?」 「妖精のボスになったってほんと?」 「学園まるごと、きみが爆破したんだって?」  うわさとは怖い。どれだけ尾ひれがついて伝わっているのか。    答えられずアリカが苦笑いしていると、始業前のチャイムが鳴った。 「やべっ。一限目、体育!」 「遅れたら、『ファング』のやつにまた校庭走らせられるぞ!」  アリカもあわてて数少ない女子について行き、更衣室で着替える。 「女の子にも容赦ないのよねえ、ファング先生」  ぶつぶつ文句を言う女子学生の愚痴を聞き、それって誰かみたいと笑むが、彼はここにはいないのだ──  痛みは小さなガラスのように、未だ胸に残ってアリカを苛む。    だが、体育館に入ったとたん、アリカは訝しげに眉をよせた。  灰色の髪を無造作に後ろで束ねた白いジャージの教官が、ぐるりとクラスを見わたす。 「全員そろったか。欠席は」 「なしです!」  日直が大声で答える。 「新入生、アリカ・イチヒノ!」 「はい!」  名前を呼ばれ、アリカもつられて思わず声が出る。 「ビシビシ鍛えるから覚悟しろ。今日は逮捕術をやる。犯人を制圧するには──」    アリカは、見本の技で学生に悲鳴をあげさせているファングという教官をまじまじと見た。    似ている、ような気がする。    もちろん彼はカーンのような少年じゃない。  見た目は二十代後半。声も低く高身長で、ジャージの上からでもわかる、体育の教官らしいしなやかな筋肉がうかがえる。 (カーンの血縁者かもしれない)    授業が終わった昼休み、アリカは体育教官室を訪ねた。 「あ、あのファング先生、ひとつおうかがいしてもよろしいでしょうか」 「なんだ」  高圧的な口調は、初めてカーンに会ったときとそっくりだ。  彼はハンバーガーにはさまれた野菜を熱心によけている最中で、こちらをふり向きもしない。  でも、なんと尋ねればいいのだろう。 「立ち入った質問ですが、先生の身内の方で」 「おれには親も兄弟もいない」  かぶせるように即答された。ふれてほしくない話題なのかもしれない。 「す、すみませんでした……」  彼がもしもカーンの親族ならと思ったのだが、よくよく考えれば時代が違う。カーンを知るはずもない。 「失礼しました」と、もどろうとしたとき。 「仲間なら遠くにいる」  ファングは後ろを向いたまま答えた。 「仲間?」 「角の生えたチビ、悪人面の大男」  アリカは目を見開いて、少し楽しそうな背中を見た。 「ヘタレな靴職人、銀髪のジゴロに馬女野郎」  アリカの目に、みるみる涙があふれてきた。 「──それと、泣き虫の警察官の卵」    ふり返り、ファングは立ち上がる。  抱きしめられ、誰だかようやくわかった。あの獣毛の、乾いた土と草の匂い。 「なんで? どうしてここに? カーン……!」    涙が止まらない。  カーンはアリカを抱きしめたまま、あれから学園に起きたことを話してくれた。  マージナルアカデミーは廃校を免れたこと。  エルアードが逮捕され、チェンジリングの呪も解かれたこと。  そして、無事ユードラは退院したこと。    ガトーは、薔薇の花束とともにユードラを迎えに行ったという。 (相変らずキザなんだから)  アリカは泣きながら苦笑した。  世間をゆるがした学園は、これから大変な過渡期を迎えるだろう。  だが彼ならきっとユードラを支えてくれる。  そんな信頼を込めてアリカはガトーを思った。 「それで、どうしてあなたはこんな……」  大人になったなんて信じられない。  背丈も目線も同じだったのに、アリカの頭は今、彼の鳩尾の位置だ。 「ガトーに、お前のばーさんの乗車券をもらったんだが」  カーンはしぶい顔で頭をかいた。 「古過ぎてボロボロだったせいか、十年前の人間界に到着したんだ」 「十年前!?」  天候や乗車券の状態によっては、列車は時を違える。  聞いてはいたものの、目の当たりにしてもすぐには信じられない。 「でも、十年前の人間界にはエルアードさんもいて……」 「存在だけはな」 「存在だけ?」 「どうやっても会えないんだ。まあ仮に会えたとしておれが事件を止めれば、お前はラースランドに来ない。おれが今ここにいることもない。関与すればそんな循環が起きるだろう。タイムパラドックスは──」    アリカには到底理解できない時空の話なので、そこで止めてもらった。  今大事なのは、目の前にカーンがいることだ。  そして、子どもの頃会った青年が彼だったとは、今のアリカにはもちろん知るよしもない。 「また、ひとりぼっちだったんだね……」  カーンの過ごした年月を憂えると、胸がいっぱいになる。 「ああ、でも、会えると信じてたから待っていられた」  冷たい印象だった蒼氷色(アイスブルー)の瞳は、今はなつかしい『語り部(フィラ)の森』の池のようにおだやかだった。    対照的に、しっぽの動きはぶんぶんと活発だ。 (耳まで出ちゃってるし)  吹き出しそうな顔を大きな手で包まれる。今度は本当に口説かれているのだと気づき、アリカは赤面した。 「『あなたの正義をわたしも追ってみたい』なんて、ほとんど殺し文句だったんだぞ」  カーンは口のはしを上げて、窓のカーテンを引いた。  昔と同じ意地の悪い笑み。でも今はこんなにドキドキする。  教官室の外では、学生たちが楽しそうに雑談をくり広げている。 「ウォーケン先生、相変わらずおっかねえな」 「いつも寝不足みたいな不機嫌な顔してるから『スリープレス(眠れない男)』って呼ぶやつもいるよね」 「もうひとつのあのあだ名は?」 「ああ、ファング? 怒るとすぐ『(ファング)』が出るんだよ、あのひと」 「人間離れしてるな」 「ニンゲンじゃなかったりして?」  そう言って笑った学生の耳が少し尖っていることに、ほかの学生はまだ気づかない。    一年後、郊外の廃駅に汽笛を上げて列車がすべり込んだ。 「わあ、粗末で素敵な場所」  まっ先にホームに舞い降りたのは、水色の髪の少女。 「アリカ、びっくりするかしら」 「早く会いたいですよ」  続いて出て来たそばかすの少年は、少し背が伸びたようだ。 「カーンも驚くだろうねえ」  とは、銀髪のゆるい美青年。 「ま、意外といいところじゃない?」  ポニーテイルの美女は、モデル並みの脚線美を見せつけて。  さながら修学旅行のような集団が、にぎやかな声をあげて列車から降りて来る。    まだアリカは知らない。  ラースランドから友好のための視察団が到着したことに。  少しずつ妖精は移住し、近い将来ふたつの種族が道を交えることに。    町ではすっかり身になじんだ青い制服で、新しい予感にアリカが空を仰いでいた。
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