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第1章
──話は、今朝に遡る。
アリカは自室の鏡の前で、そわそわと浮き足立っていた。くるりと回転すると、サイドで束ねたチョコレート色の髪がしっぽのように跳ね上がる。まだ躰にそぐわない青い制服が、少しくすぐったい。
「今日からわたしも、仮とはいえ警察官なのね」
小さな頃からの夢が、目前に迫っている。国家試験をクリアし、いよいよ王立警察学校へ入校という晴れの日の朝。目標にまたひとつ近づいた矜持に、心地よい緊張感がみなぎる。
両親の反対を押し切って、ようやくここまで来た。
グローバルな広い世界で働きたいアリカにとって、それまで通って来た女学園の花嫁修行のようなカリキュラムは、窮屈で仕方なかった。
そんなアリカを応援してくれたのは、身内では祖母だけだった。
祖母は若い頃、海外での留学経験があったという。
古い洒落た菓子缶から取り出す色あせた写真には、銀幕の女優のようなモダンな装いの女性が、のびのびと笑っている。世界は果てしないのだといつもアリカに語ってくれていた。
「これは、あなたを広い世界へ旅立たせるおまじない」
祖母は、小さな巾着のお守りをアリカにくれた。
だが唯一の味方だった彼女は、春が来る前に亡くなってしまった。
(おばあちゃん、わたし、がんばったよ)
首からかけている祖母にもらったお守りをぎゅっとにぎりしめ、寮の部屋を出る。
が、誇らしげに踏み出した一歩は、唐突にさえぎられた。
「アリカ・イチヒノ、至急警視庁へ出頭しなさい」
ヒグマのような女性寮監が、眼前にのっしと立ちはだかっている。
「こ、これから王立警察学校で入校式ですが……」
「警視庁刑事部長がお呼びです」
三角眼鏡の奥の眼光は有無を言わせない。
(式典を欠席させるほどの用件なんて、いったい何かしら)
入学が取り消しになるような不祥事を起こした覚えはないが、にこりともしない寮監の様子から見て楽しい話とも思えない。
おまけに、
「その髪留め、風紀違反ですね」
と没収され、地味な深緑の髪ゴムに強制的に替えられる。
(ダサい……)
「何か?」
「い、いえ、なんでもありません」
アリカは売られてゆく子牛のような心境の中、表に待機していた車で運ばれて行った。
警視庁本部へ来るのは初めてだ。威圧的に見下ろすどっしりとした古めかしい庁舎に入り、灯りも点いていない小さな部屋へひとり通される。
(ここって、取り調べ室なんじゃ……)
アームライトの備わった事務机から、びくびくと四方を見回し待つこと数分。ドアが開き、つば広の麦わら帽子をかぶった作業服の人物が入って来た。
「おやおや、暗かったでしょう」
短躯で初老の男性は、蛍光管をかかえたままよいしょとパイプ椅子に上がり、慣れた手つきで照明を交換する。
アリカが戸惑いながら軽く会釈すると、男性は土のついた軍手をはずし、ルームサービスのように「コーヒーふたつといつもの」と内線で注文を頼み始めた。
ぽかんとするアリカをおき去りに、彼は陽気に話を続ける。
「ちょっと今、中庭にニワトコの木を植栽していたところで、こんな格好ですまないね。刑事部長のエルアード・アンダーソンだ」
気取りのない気さくな好々爺だが、「ぶちょう」と聞こえたような気がする。アリカがぱちくりと瞬きをするとノックの音がし、すぐにコーヒーとブラウニーが運ばれて来た。
「やあ、ありがとう」
「失礼します、部長」
恭しく頭を下げて出ていく女性警官。彼が刑事部長というのは本当らしい。
アリカは向かいの男性を、目を点にして見つめた。
確かによく見ると、作業服でも経験を重ねた威厳が感じられる。エルアードは、ひとのよさそうな糸目で笑った。
「はは、用務員だと思ったかい? まあ、こんな小汚いなりをしているから仕方ないか。わたしは時間が許せば、土仕事をするのが好きでね。ああ、コーヒーとお菓子をどうぞ」
しかし、ゆっくりお茶など飲む心境ではない。アリカはおずおずと視線を上げ尋ねた。
「あ、あの、わたしにどのような……」
エルアードは「おおそうだ」と、唐突に視力検査表を机に広げた。
「これ、見たことはあるね?」
もちろんである。学童時からの健康診断でおなじみであり、今回採用試験の際も測定された検査だ。
「きみは非常に視力がいい。そこを見込んで、ぜひ協力してもらいたい捜査がある」
瞬時に心臓が興奮で跳ね上がった。
まだ正式な警察官でもないのに、仕事に加えてもらえるなんて!
ずっと現場に出るのが目標だったのだ。思わず席を立つ。
「喜んでお引き受けします!」
「そう言ってもらえるとうれしいよ。実は今、ある学園で通り魔事件が起きていてね」
事件と聞くだけで俄然、アドレナリンが駆け巡る。
「急な人事となるがきみにはそこで学生を装い潜入し、犯人をあぶり出してほしい」
「お任せ下さい、どこの学校でしょう!」
「特区だ」
「とっ──」
語尾をつまらせるアリカに、エルアードが視力検査表を軽く叩いた。
「きみは、いい眼を持っている」
「ご、ごく標準だと思います……」
さっきまでの勢いはどこへやら、アリカはそろそろとまたすわり、声は小さくしぼむ。
「この検査表、実は視力を測るだけのものじゃない」
ますますわけがわからなくなった。
視力検査表は環を模ったCマークが、大小の順にいろんな方向を向いて並んでおり、通常その切れ目の位置を答えるテストだ。
そして、自分は確かにその通り片目ずつ試したはず。
「ひとつの環だけ、ふつうの人間には視えないようになっている。それに反応したのは、きみだけだ」
エルアードの話によると「ふつうの人間」にはその箇所が空白に見えており、指示棒で示しても不可解な反応をするという。
「妖精界で作られた、花の液のインクで描かれている。これが視えるのはすなわち、『妖精の眼』を持つ者のみ」
妖精だなどと、いきなりファンタジーな言葉を現実に持って来られても思考がついていかない。
ぽかんと口を開けるアリカに、エルアードは矢継ぎ早に尋ねてくる。
「妖精にものをもらったことは?」
「ありません」
「身内に妖精は?」
「い、いません」
「チェンジリング──とりかえっ子を知ってるかい?
言葉の通り、人間と妖精の子どもを取り替えるという妖精族の悪戯があるのだが、きみは間違いなくヒト科だね?」
「もちろんです!」
ふむ、とエルアードはめずらしげにあごをなでる。
「つまりきみは、奇跡的に片目が『妖精の眼』の人間ということになる」
(妖精の眼──)
アリカは驚いて目を見開く。
一瞬、花のように咲いたアリカの左目の虹彩に、エルアードは満足げに目を細めた。
「アリカ・イチヒノ。特別捜査官として特区『ラースランド』に出向を命じる」
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