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今よりはるか昔、妖精と人間は共存していた。しかし種族の違いは争いを生み、いつしか敵対することになる。
人間は武器を手に、妖精族は虫となり獣となり、互いを襲った。
戦いの果て、それぞれの世界は分かたれた。やがて何百年という長い年月を経て、ふたつの種族は再び和平を結ぼうと、二国が交わるあるエリアにひとつの町を設立した。
それが、特区『ラースランド』である。
アリカは今、無人のプラットホームで、放心気味に手の中の切符を見つめていた。取るものもとりあえず、小ぶりのトランクに生活用品と非常食をつめ込んで。
まわりは見わたす限り畑の、郊外の廃駅だ。
(どうしてわたしが『妖精の眼』とやらを?)
取り替えられた記憶もないし、妖精など会ったこともない。
妖精の中には人間には視えにくい種もあり、『妖精の眼』を持つ者だけがその姿を確認できるという。
そう説明されても自分を取り巻く状況がさっぱりわからず、紅葉の舞う初秋の鮮やかな景色も今や彩度が失われて見える。
特区の情報はガイドブックもなくほぼ皆無だ。恐ろしく辺境にあるらしく、アリカは正しい位置も知らない。治安も不明ときて正直、旅行ですら訪ねたくはない場所だ。
「今回の任務は極秘だ」
エルアードとのやり取りを思い出す。
「なぜラースランドの警察が担当しないのでしょうか……」
「治外法権というかね」
エルアードは困ったように腕を組んだ。
「特区にも社会の安全や秩序を守るための行政機関は設置されているが、学園だけは独立したエリアで干渉できない。いわばひとつの国家なんだ。
向こうとは交換留学の話も上がっていて、警察組織にもそのうち妖精族を導入する予定だ。いずれ我が国に大きく関わって来る。
青少年の犯罪を、野放しにしてはおけないのだよ」
「人間はいるんですか?」
「きみがラースランドを踏む初めての人類となる」
月面着陸のような壮大な例えをもらったが、要は人外だらけの魔窟に放り込まれるということだ。
歴史では知っていても妖精などアリカにとっては未知の存在であり、使命感がそよとも動かない。
アリカはコーヒーを意味もなくぐるぐるとまぜながら、さりげなく必死に抗った。
「その、特殊な眼を持っているということですが、わたし妖精はもちろん、幽霊の類すら視たことないんですけど……」
「妖精は心霊現象ではない。物理的に実在する生き物だ」
「で、でもまだ見習いもいいとこですし、お役に立てるかどうか」
「むしろきみにしかできない」
「王立警察学校も出ていませんし!」
「特別捜査官採用者は実務研修は免除される」
それはこれまでの職歴があれば、の話である。
「それにきみ、確か刑事課志望だったろ? 初仕事にはちょうどいい。なんせ適任者がなかなかいなくてね、派遣できなかったんだ。
何よりわたしは、きみのような若者に新しい世界を知ってほしい」
エルアードがカップをソーサーにおく音が思いのほか大きく響き、強制的に話にピリオドを打たれた気がした。
刑事課を志望しているのは事実だ、しかし、わざわざ魔窟という新しい世界を知る必要があるだろうか。
もんもんとしている間にも準備は進められ、気づけばここである。
アリカはひとりトランクに腰を下ろし、迎えを待っていた。
(駅に来るのは妖精族の学生だ。表向き、きみは人間の留学生ということになっている。捜査が明るみに出ないよう、学園でも気をつけてくれ)
エルアードの最後の忠告が頭を過る。
電力事情が異なるため、スマホもパソコンも持っていけない。エルアードには、定期的に調査書を送ることになっていた。ラースランドとの交信は、列車での郵送のみという、時代錯誤な手段しかないらしい。
(今どきジャングルの奥地だって、電話もインターネットも完備されてるわよ)
そんなことを考えていると、ふとどこからか圧力鍋のような動力音が聞こえてきた。線路伝いに高らかな汽笛をあげてやって来たのは……
「蒸気機関車!」
黒い長者が遠くから現れたとたん、突然ヒュッとつむじ風が巻き起こり、アリカはコートの身ごろを抱きしめ思わず目をつぶった。
「──お待たせ、お嬢さん」
あまく、艶のある声が降りて来る。そっと目を開けると、目も眩むような輝きを放つ異国の青年がアリカに手をのべていた。長い銀髪、誰もが見返る麗貌。
まるで、ケルト神話の騎士のようで──
アリカは盛大に顔をしかめた。
「えぇ……そんな反応されたの、初めてなんだけど」
騎士は嘆くが、こんな田舎に怪しさ満点の外国人だ、警戒して当然である。
「ここじゃ不審者なんですよ、あなたは」
もうひとり、声が後ろから追って来た。こちらはごくふつうの十五、六歳ほどのおだやかな風貌の少年。小鹿色の巻き毛にそばかすがかわいらしい男の子だ。
「初めまして、ぼくヘーゼルといいます」
「初めまして、お迎えの方ですか?」
アリカはあわてて、トランクから立ち上がった。すぐに、長髪の騎士が我先にと前面にすべり込んで来る。
「……そう、ぼくはガトー・レンドル。きみを新しい世界へ導く者だ」
セリフの端々に煌々しい笑みが入るが、アリカにはあまり刺さらず深々と頭を下げる。
「あ、お世話になります。アリカ・イチヒノです」
「そう……素で返されるといたたまれないな、ぼくが……」
美麗に苦笑するさまはどう見ても人間だ。
危険な雰囲気はないので、ひとまずほっとする。
ガトーが、不思議そうな顔でアリカをのぞき込んだ。
「ねえきみ、どこかで会ったことない?」
「うわ、それ使うひとまだいるんだ」
ヘーゼルが露骨に吐きそうな顔をする。
アリカもこんな派手な美形にまず覚えはない。
「会ったら忘れるわけないと思いますが……」
アリカの皮肉に気づかず、ガトーはふっと笑った。
「そうだよねー。じゃあ前世での出会いかな?」
「まだそれ続けるんですか、ガトーさん」
面倒くさそうに肩を鳴らすヘーゼル。
「いやいや、ほんとにそう感じたんだって」
「あんた、学園中の女の子に既視感持ってるでしょ」
(本当にこのひとたちが妖精なの?)
コントのようなやり取りをアリカがまじまじと眺めていると、ヘーゼルがアリカの足もとに目をやった。
「アリカさん、いい靴はいてますね」
「えっ、そう?」
アリカにとってはいいも悪いもわからない、なんの変哲もないショートブーツだ。
「でも、よくつまずいたりしませんか?」
「どうしてわかるの?」
確かに、自分は何もない道で転びかける傾向がある。
「ソールが内側に擦れてる。踵がゆがんでるんです。けど歩き方で治りますよ」
(すごい、整体師みたい)
感心するアリカだったが、ガトーは呆れたように半目で見やった。
「ヘーゼルは足フェチなんだから。アリカちゃん、ひいてるじゃないか。こいつ、全生徒の足を覚えてるんだよ」
「ぼくは純粋に靴が好きなんです。だいたいガトーさんだって髪フェチじゃないですか」
「そうだ、アリカちゃん、うなじ見せてくれない?」
きりりと真顔で答えるガトーに、アリカは本当にひいた。後退りしがちなアリカを和めるべく、ふたりはあわてて取り繕う。
「あっ……あの、異国との国際交流は楽しいですよ」
「そうそう、初めての留学も簡単・安心」
言われて、自分は留学生だという設定を改めて思い出す。
「よ、よろしくお願いします!」
こちらこそ、とガトーがアリカのトランクをスマートに持ち上げた。
この列車が自分を任務地へ運ぶのだと思うと、タラップを踏む足裏にも力が入る。
「あ、アリカちゃん、切符」
ガトーに言われ、アリカがエルアードにわたされた切符を取り出すと、乗降口をくぐった瞬間、ちりっと小さな刺激が走った気がした。
「これがないと、乗れないんだ」
ガトーが意味ありげに微笑む。
やがて、どう見ても廃線のホームを蒸気機関車は厚い蒸気を噴き上げてすべり出した。
実際、動いている車体を見るのは初めてである。内装も、映画でしか見たことがないレトロなコンパートメントタイプの二等客車だ。
座席でガトーがぐんと伸びをした。
「せっかく来たからゆっくりしたかったのにな」
ヘーゼルもうなずく。
「ですね。こっちでいろんな靴を見たかったです」
「ほんと見たかったなー」
「ガトーさんが見たかったのは女の子でしょ」
「だって人間界て、今も昔もかわいいコが多いじゃない」
「人間界?」
きょとんとアリカが顔を傾けたとき列車はトンネルへ入り、
その後アリカは──
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