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アリカも顔を上げて、まばゆいライトの下へ踏み出した。
あいさつは、役者も劇団員も全員がステージに並ぶ。足は小刻みにふるえ、冷や汗が背を伝った。
(どうしよう、どうすればいい?)
客席のすみでエルアードが見ている。言葉を発することはできない。
このまま彼の言う通りもどるしかないのか。
いっそ、そのほうがいいのかもしれない。そうすればカーンはもとの世界に……
そのとき、カーンの声が聞こえた気がした。
──みんながいる
たとえカーンが本当に声援を送ったとしても、聞こえるはずはない。客席は遠く、表情など見えないのだ。
だがアリカの胸には、確かであたたかな脈動がもどって来た。
(そうだ、わたしにはギルドのみんながついている。ヘーゼルも、カーンも──!)
アリカはほかの劇団員がするように、客席に向かって手を上げた。
くり返し、サインを織り交ぜながら手をふる。
『パー・グー・パー』。
カーンは怪訝な顔で舞台を見上げている。となりにすわるヘーゼルも首を傾けていた。
(気づいて)
笑顔で拍手に応えながら、アリカの額を汗が伝った。
(助けて、カーン──!)
カーンは突然立ち上がり、その場で空気を思い切り吸った。
鼻腔に何かを感じ取ったのか、後方をふり返る。標的に焦点があった瞬間、蒼氷色の瞳が光を帯びた。
ピィイイー──!
カーンのゆび笛が劇場に響きわたる。
バサッと遠くで羽ばたきが聞こえたかと思うと、劇場にみるみる大きな翼が近づいて来た。
風を巻き込み、派手な轟音とともに入って来たのはドラゴン便だ。
会場は何事かと大騒ぎになった。エルアードもあわてて逃げ惑う。
「荷物、三時の方向!」
カーンのコマンドに、ドラゴンは無骨な爪でターゲットの躰をつかんだ。
「──なっ! 放せこのっ!」
両腕を拘束されエルアードは足をバタつかせるが、ドラゴンは高みへ舞い上がった。
「列車が出る! わたしの力がないと、そいつは人間界へ帰れないぞ、イチヒノ!」
わめくエルアードを、
「後は任せたぞ!」
と《黒妖犬》のメンバーに託けると、カーンはアリカの腕をつかんで走り出した。
「──わ、わたしの合図、わかったの?」
息を切らし、アリカはカーンに確かめた。
「お前が言ったんだろ。『SOS』はピンチのサインだって。数字の『505』を指の数におき換えたら『パー・グー・パー』、安直だ」
聞き慣れた憎まれ口が今はほっとする。
「でも、どうして彼が犯人だって……」
「会場から、あいつだけが麝香の香りがした」
カーンは学園の敷地を出て、ラースランドの駅を目指す。すぐにターミナルのガレリアが見えて来た。
列車はもうプラットホームに待機している。
「お前は人間界へ帰るんだ」
「ちょっと待ってよ、まだユードラさんのことだって……それにカーン、エルアードの力を借りれば人間界へ帰れるのよ」
「それと引き換えにお前は何を失う?」
「それは……」
カーンは見透かすように深くアリカを見た。
「おれなんかのために……本当にバカだな」
そう言うと、カーンは突然アリカを引きよせた。
首の辺りで、かちりと音がする。
「ヒルダに池にもぐって、鍵を見つけてもらった」
首環がかしゃんとはずれ地に落ち、驚く間もなく、カーンがアリカの首すじに歯を立てた。
「痛っ、何を──!」
「〝乗れ、列車に〟」
「いやだったら! あっ?」
足が勝手にタラップを踏む。
「ど、どうして?」
どん、と強く肩を押され、アリカは乗降口に倒れ込んだ。ホームに立つカーンの口もとには小さく血痕がついている。
はっと自分の首に手をやり、ヒルダの言葉を思い出した。
(牙でも立てられて噛まれたら──相手の操り人形になっちゃうんだから)
「血の誓約……! でもまだ、マスターはわたしのはずよ!」
「お前はメンバーみんなで解任した。もう、おれがマスターだ」
「リコールを起こしたのね! ひどい、そんな勝手に……!」
ドアが閉まるのに、アリカはもう身動きがとれない。
カーンは小さく笑い、うつむいて言った。
「いつか学園にニンゲンが来たら、少しでも守ってやれればと思ってた──」
列車はゆっくりと走り出す。
追ってホームのはしに来たカーンの口が「さよなら」と動いたが、汽笛にまぎれて声は聞こえない。
人影は点となり、やがて何もかもが煙にまかれ見えなくなり、アリカはひざをつきその場に泣き崩れた。
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