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侯爵になった幼馴染との幸せな結婚式の翌朝、空に竜が現れた。
輝く炎の色をした巨大な竜が、青い空を旋回しながら飛んでいる。この世界には竜が存在することは知っていても、この国では誰も見たことが無かった。
「シュゼット、見てごらん。竜は本当に存在していたのか。綺麗だな」
「そうね。でも、なんだか怖いわ」
夜着のまま夫のセブランと並んで窓から空を見上げていると、竜が屋敷の庭へと降りて人の姿へと変化した。
先程まで赤い竜だった男性は、背が高く、赤く燃える炎のような長い髪、紫色の瞳に浅黒い肌。三十歳前後に見えても竜族は長寿の種だから年齢は全く推測できない。赤茶色の上品な光沢をもつ詰襟の上着は袖も裾も長く、ゆったりとしたズボンに茶色い革の履物という姿は、光り輝き神々しい。
「竜が降りてきた!?」
「どうするの?」
「どうも何も、当主である僕が迎えに行くしかないだろう。君も挨拶の支度をしておいてくれ」
慌ただしく貴族の正装に着替える夫を手伝い、私も侍女に手伝わせて客を迎える為のドレスを着用する。
夫が竜を屋敷に迎え入れ、しばらくして私が応接室へと呼ばれた。
『火竜ヴァスィルだ。会いたかった』
正式な挨拶を交わす前に、男が立ち上がって近づいてきた。
心臓がどくりと嫌な音を立て、私の心が変質していくのを感じた。
愛しい。湧き上がる想いを必死に抑え、私は淡い笑みを浮かべる。
「初めまして。セヴラン・フェーブルの妻、シュゼット・フェーブルでございます」
私の挨拶を聞いて、ヴァスィルが顔色を変えた。
『まさか!? 君は俺の番だろう?』
「番? それは何のことですか?」
本当は理解している。竜族には世界にたった一人の番が存在している。竜の番は竜であることが多くても、こうして人間が選ばれることもある。竜の番は出会った瞬間に恋に落ちて結ばれる運命だと誰もが知っている。
動揺した夫も椅子から立ち上がった。
「番? シュゼット、そうなのか?」
「違います」
きっぱりと一言で拒絶の意思を示す。見ず知らずの男を愛しいと思う自分の心の裏切りが悔しい。昨日、私は女神の前で夫との永遠の愛を誓って結婚式を挙げた。その次の日に他の男に心を移すなんて、自分の心が許せない。
『君は俺の番のはずだ。俺が間違うはずがない』
「そうおっしゃられても困ります。私は貴方を存じ上げませんし、運命を感じません」
それは嘘。目の前で狼狽する美丈夫に、私の心は奪われている。今すぐその腕に抱きしめられたいと思う気持ちを抑え、静かにその紫の瞳を見返す。
美しい宝石のような紫の瞳は光り輝き、私だけを見つめている。高鳴る鼓動で心臓が壊れそう。これが運命の恋なのか。
『運命を感じない? 本当に?』
悲し気にひそめる眉と哀願するような声で、ますます鼓動が跳ね上がる。私の髪に触れようとした手から逃れて、夫のもとに駆け寄る。
「ヴァスィル様、彼女は私の妻です。貴方の番ではありません」
竜に対峙するようにして夫が私を背に庇い、私は夫の背にしがみ付く。その姿を見て衝撃を受けたのか、竜は驚愕の表情を浮かべた。
『……すまない。俺の間違いだったようだ……』
肩を落として項垂れた竜は、屋敷から去って行った。
「セブラン、大丈夫?」
竜が目の前からいなくなると、私の心臓の鼓動も落ち着いた。夫の蒼白な頬に手を伸ばす。
「……シュゼット、本当に君は竜の番ではないのか?」
「違います。幼い頃から私が貴方を愛していたのは知っているでしょう? 何かの間違いよ」
夫の茶色の髪を撫で、その胸に顔を埋めれば優しく抱きしめられた。
「それならいいのだが……」
「心配しないで。私は貴方だけを愛しています」
また私は嘘を重ねた。私の心は出会ったばかりの竜を求めている。追いかけていきそうな心と本能的な衝動を抑え込む為に言葉で縛る。幼い頃から夫と積み上げてきた優しくて甘い記憶を無かったことにしたくなかった。
■
明るい希望に満ちるはずの新婚生活は、火竜の出現で一変してしまった。
火竜は諦めてはいなかった。
屋敷の周囲をうろついていた火竜は王によって城の客人として迎え入れられて、もてなしの為に私たち夫婦が呼ばれ、お茶や食事を共にした。
「竜族には、番にすでに伴侶がいた場合は諦めるという決まりがあると聞いた。僕がいれば大丈夫だ」
そのうち私だけが呼ばれるようになっても、夫は必ず同行して盾になってくれた。
舞踏会では夫ではなく火竜と踊るようにと王に命じられ、火竜の滞在する客間の寝室へと案内されそうになったこともあり、私は精神を病んだという理由を付けて、侯爵家の屋敷に引きこもるようになった。
■
「お帰りなさい。どうなさったの?」
王城から戻って来た夫の顔色が今日は特に悪い。いつもなら何でもないと無理にでも笑うのに表情が硬い。
何度も質問すると、ようやく夫が口を開いた。
「……竜に君を差し出せという話が出始めている」
「そんな……。私が番だというのはきっと間違いよ。私が愛しているのはセブランだけよ」
この世界には火竜・水竜・地竜・風竜の四種類の竜がいる。魔力とは異なる聖なる力を持ち、様々な奇跡を起こす。王族が契約を結んで水竜に治水を任せている国もある。
竜の守護が得られれば周辺国から格上の国と認められ、他国から戦争を起こされる心配がなくなる。そう思い至った時、夫が王や貴族から責められているのではないかと気が付いた。
「……私が竜の所にいけば、貴方の立場は取り戻せるかしら」
行きたくはない。火竜の姿を見れば、あの強力な運命の愛を感じてしまう。私は夫を愛し続けたい。
「悲しいことは言わないでくれ。僕が必ず護る。シュゼットは間違いなく僕の妻だ。火竜に諦めてもらうように話をする。僕は君を愛してる。確かに貴族として国益を優先させる義務はあるが、君が間違いだと言っているのに渡すことなんてできないよ」
夫はそう言って、私の亜麻色の髪を撫でた。
■
半年が過ぎた頃、夫が毒薬を飲んで死んだ。
書き物机に残されていたのは、私との離婚を命じる王の手紙。もう私を護れないと絶望しての自決だった。
私は服喪の間に手を尽くして、森の奥深くに住む魔女に会い、夫が愛していた長い髪と引き換えに竜を一定時間動けなくする薬を手に入れた。聖なる力を持つ竜を殺す薬は魔女も作ることができないと言っていて、私も殺すつもりはなかった。
■
喪が明けると同時に、私は王城へと呼び出しを受けた。亜麻色の髪を肩で切り揃え、黒いドレスを着た私を見ると、誰もが気まずい顔をして目を逸らす。
火竜への貢物。皆はそう思っているのだろう。客室でヴァスィルと二人きりにされてしまった。
『あの美しい髪を切ってしまったのか。残念だが、短い髪も可愛らしくていいな』
明るい笑顔が愛しくて、憎い。殺せるものなら殺してしまいたい。そうは思っても、強大な力を持つ竜を殺すことは難しい。過去にはたった一人の竜に滅ぼされた国もある。
「お茶を淹れます。座ってお待ち下さい」
抱きしめようとする腕から逃れ、淹れた花茶の中に持参した魔女の薬を垂らす。
『それは?』
「最近、女性に流行している香料です」
『そうか。確かに良い匂いだ』
竜に毒薬は効かないと言われているから、気にすることもないのだろう。ヴァスィルは手渡したお茶を疑うことなく一息で飲み干した。
『ああ、今までで一番美味い茶だ。もう一杯もらえるか?』
「はい」
嬉しさを隠さない笑顔で、ヴァスィルはお茶をねだる。私はゆっくりと時間を掛けて二杯目を淹れた。
「どうぞ」
手渡したカップが、そのまま床へと落ちた。
『……なんだ? 体が……』
魔女の薬が効いてくれたことに安堵する。座っていた椅子に深く沈み込み、ヴァスィルは動けない。これで言いたかったことが言える。
「竜の番なんて、私にとっては呪いでしかないの。生まれてからずっと、私はセブランを好きだった。子供の頃からずっと愛してきたのよ。それなのに……番だからって私の心を奪うなんて酷いわ!」
『やはり俺は間違っていなかったのか。俺は君の番だ。これは運命なんだから仕方ないだろう?』
体が動かないにも関わらず、ヴァスィルは全身で喜びを示しながら笑う。
「運命だから何? 貴方が諦めないせいで、セブランは自ら命を絶ってしまったのよ! 絶対に許さない! たとえ生まれ変わったとしても、私は貴方を選ばない!」
叫びの後の息を整え、姿勢を正してドレスの隠しからもう一つの小瓶を取り出す。
『何をするんだ? 俺に毒を盛っても死なないぞ。この薬も、もうすぐ効き目が切れる』
訝し気な表情のヴァスィルに向かって、私は笑う。竜は様々な薬を体内で分解する力があると魔女が言っていた。それでも、この一瞬だけ動きを止められればいい。
「さようなら。私は愛する夫を追いかけます」
夫が遺してくれた毒薬を飲み干せば、喉が焼けるような熱さと痛み。夫が味わったのと同じ苦しさだと思えばつらくはない。意識を失う前に、私は夫から貰った婚姻の腕輪を抱きしめた。ヴァスィルを求める心より、セブランを愛する心の方が私にとっては重い。
『何故だ! 俺の番じゃないのか!?』
ヴァスィルの悲痛な叫びも、私の心を引き留めることはできなかった。
■
あれから長い時間が過ぎて、私は裕福な商家の娘として生まれ変わった。貴族として生きていた記憶を持つ私は、前世の記憶を失い公爵家の息子として生まれ変わっていたセブランと静かに育んだ恋を成就させ、身分の違いを乗り越えて結婚した。
またヴァスィルは、私の婚礼の翌日にやってきた。
「どなたかしら?」
首を傾げ、まるで初めて会ったかのような表情を作って私は微笑む。
「俺はヴァスィル。君の番だ」
「申し訳ありませんが、おっしゃっている意味がわかりません」
竜が番を感知する瞬間は様々で、どうやらヴァスィルの場合は私が純潔を失うと感知できるようになるらしい。
愛しくて、憎い番。私の心が番を求めて叫び続けていても、私はヴァスィルを選ばない。
時間を掛けて積み重ねた優しい想いを踏みにじり、暴力的に心を奪っていく運命の愛なんて絶対に認めない。私は私が選んだ人と穏やかで幸せな愛を目指したい。
今もなお強く感じる、この運命の愛は偽物。夫を殺した者に惹かれるなんて、自分自身が許せない。
「きっと、それは間違いです。私には愛する夫がいますから」
ヴァスィルの絶望に染まった紫色の瞳に、そして残酷な運命に、私は優しく微笑んだ。
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