第一話 東京駅に車で迎えにいけますか?

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 ――まず私が『東京の高校に行きたい』と願った。母は『東京だけは駄目だ』と打ち捨てた。  私たちはそれまで意見が割れたことすらなかったから、私は母の言葉に驚いたし、母も私の言葉に驚いていた。お互いにお互いをまるで『得体のしれない化け物』かのように見詰め合ってしまうぐらい、私たちは驚いた。  あの沈黙(ちんもく)の時間は今思い返しても、ひどく気まずいものだ。  しかしどれほど気まずかろうが現実問題として、私が希望していた高校は都内に通える距離の場所に保護者(父か母)と同居していなければ出願すら許されない。私はあの気まずさを躊躇せず、一生懸命(いっしょうけんめい)勉強しながら一生懸命母にねだり続けた。 『一緒に東京に行こう。三年経ったら母さんを必ず佐渡(さど)に返すから』  母は私の願いになにも答えてくれなかった。  それでも私はその学校に願書(がんしょ)を取りに行き、受験勉強をし続けた。母ならきっとわかってくれると信じて勉強をしたのだ。  そして、母は出願(しゅつがん)前に私に根負けし『わかったわ』と言ってくれた。しかし彼女は私が大喜びする前に、こんなことを言い始めたのだ。 『東京のおじさんの家から通いなさい。住民票はもう移したし、高校にも出願しておいたから。だから頑張って受かるのよ』  むちゃくちゃだ。  どうして今まで会ったことがないどころか聞いたことすらない『おじさん』なんかに嫁入り前の娘を送るのか。そもそも私が希望する高校は『父か母との同居が条件』なのだから『おじさん』じゃ書類が通るはずがない。つまり、それって『おじさん』じゃなく『母さんの別れた夫』、つまり『私の父』なんじゃないか。じゃあ、なんで『おじさん』なんて嘘を吐くのか。  でも母は苦渋(くじゅう)の決断であることを隠しもしない苦しそうな顔をしていた。  だから私はなにも聞けなかった。  母のむちゃくちゃな提案を受け入れて、ひとつも質問しない。それが私の母に対する気遣いだった。  けれど質問をしなかったことで、私と母の間には気まずさが残ってしまった。これまで少しのずれのなかった私たちは、二人の人間になってしまったのだ。  そして、私は合格し、彼女のむちゃくちゃな提案通り単身上京することになった。  ――そうだ。それで今日、母が運転する車で両津港(りょうつこう)に向かったんだ。  車から降りてボストンバックを肩にかけトランクケースを引きずって歩く。 「バッグ貸しなさい、持つから」  母が私のバックに手をかけた。それは彼女の優しさだと分かっていたけれど、私はその手を振り払った。 「……好きにしなさい」  私は『こんな荷物ちっとも重たくない』という顔をして、ジェットフォイル待合室まで歩く。  待合室には私たち以外には三人しかいなかった。  私がベンチに腰かけ、コートのポケットから文庫本を取り出すと、母は財布片手に立ち上がった。 「お母さん、お茶買ってくるわね」 「イラナイ」 「私が飲むのよ」 「……アッソ」  文庫本を開く。  ――哀れなウェルテルの身の上について――なんとか読もうとするが内容が頭まで届いてこない。それでも鬱々(うつうつ)とした気持ちをごまかすためにページを(めく)り続ける。  そんな私の肩を母はペットボトルの底でつついてきた。  チラリと横目で見ると、やっぱりお茶を二本買ってきていた。『イラナイと言ったのに』と思いながら一本受けとる。彼女は私の隣に座るとチラリと私の本を見てから、私の顔を(のぞ)きこんできた。 「おじさんの家に着いたら連絡しなさいよ」  おじさん、なんて嘘つき。  咄嗟にそう思ってしまった。  ――朱莉。  子どもの頃から夢で同じ人に会う。多分、あれが『父』だ。  夢の中ではその人の顔は見えない。だけど声だけは分かる。低くて落ち着いた優しい声。その声が好きだった。だからあの人が『父』なら母に隠さずそう言ってほしい。 「朱莉、返事をしなさい」  でも母はやっぱり辛そうな表情だ。だからもうなにも聞けない。 「……ウン」 「……朱莉」 「ナニ?」  母の言いたいことはわかっている。  わかっていたからそれを言わせたくなくてわざとぶっきらぼうに聞き返す。そうすれば母は私を怒らせないために余計なことは言わなくなるとわかっていた。そして母は思った通り困ったように眉を下げて「なんでもないわ」と言った。 「……ア、ソウ」  自分でそうさせたくせに母の気遣いが不愉快で仕方ない。舌打ちしたくなるほどの苛立ち。理不尽な八つ当たりとわかっているのにこの燃えるような怒りを消す方法がわからない。  私の指は読んでもいないページを捲り、母の指が気まずそうにベンチを叩いていた。  しばらくそうして気まずくしていると、ジェットフォイルの搭乗アナウンスが流れた。 「やっぱり私も行くわ、東京まで朱莉一人で行くなんて……」 「受験のときに行き方覚えたもの。簡単よ」 「でも……」  今さらそんなことを言って着いてこようとした母に背を向け、ズルズルとトランクを引きずって待合室を出た。  改札でチケットのQRコードを読み込ませるのを上手くできないでいたら、駅員さんが私の代わりにやってくれた。駅員さんは他の乗客にも同じ対応をしている。  『だったら昔の通り紙のチケットを改札鋏(かいさつきょう)で切ってくれるシステムでよかったじゃないか』なんて八つ当たりで考えつつ、駅員さんに「ありがとう」とお礼を言って改札を抜けた。 「朱莉! いってらっしゃい!」  背中にかけられた母の声に、急に胸が熱くなった。 『一人でなんて行きたくない』 『知らない人とだって暮らしたくない』 『いやだ!』 『やっぱり佐渡にいる!!』  子どもみたいに泣きわめいて振り向いてしまいたい。でもそんな思い、少しでも口にしてしまったら歩き出せなくなる。だから振り返りもせず、手を振ることさえせずに私はジェットフォイルに乗り込む。  ジェットフォイルの二階席には誰もいないようだった。  どうやら他の人は一階席を選んだらしい。一人青い座席に腰かけ、窓の外を見る。  窓の外は日本海と空。それだけだ。 「……最低ね、私……」  あまりにもぶっきらぼうであまりにも愛がない。十五歳の春として最低だ。自分の気持ちに折り合いがつけられずに意地を張るなんて、子どもじみていて情けない。  ボストンバックから文庫本を取り出す――『若きウェルテルの悩み』――鬱々とした今の自分にぴったりの一冊だった。
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