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「さっきから箸が進んでいないようだ。私が食べさせてあげようね」
「ちょ、え、ちょっと……」
「安心しなさい。膝の上で漏らされるぐらいで怒りはしない。慣れたものだ」
「待って!? 怖い! 待って! なに!? なんでそんないきなり……近すぎ! なに!?」
私の動揺に彼はキョトンと首をかしげた。
「きみは私の膝が好きだろう?」
「え!?」
「……ヒヒヒヒヒヒヒッ」
突然差し込まれた笑い声にそちらを見ると、ヒロさんがヤバイ薬を飲んだのかというぐらいゲラゲラ笑っていた。絶海さんも不思議そうに彼を眺める。
「なにがそんなにおかしいんだ、ヒロ?」
「ヒッヒッヒッヒッ、若っ……にやにやしちゃって、……ギィ、ヒッ、……ヒッヒッヒッヒッ……」
泣きながら引き笑いしているヒロさんは、どうやら助けにはならなそうだ。どうしようと思いつつ恐る恐る見上げると、絶海さんは私を見下ろしていた。幼い子どもを見るかのような優しい微笑みだけど、怖い。
「……あの……」
「うん?」
彼は私を抱き締めて「私はきみの味方だ。なんでも言ってくれ」と耳元でささやいてきた。初めての異性からのハグ。そして元組長。……恐怖でしかない。どうしてこうなった。
怖さのあまり吐き気がしてきた私は震える手で絶海さんの腕を軽く叩いた。
「下ろしてちょうだい……情報量多すぎて、ちょっと、……混乱しているの……」
「……それは無理もないな」
やっと絶海さんが膝から下ろしてくれたので私は深呼吸をした。何度か繰り返し、ようやく心臓が落ち着いたところで口を開けたら「皆ヤクザなの……」と意図せず本音がこぼれてしまった。私の本音にヒロさんはゲラゲラ笑い、絶海さんはクスクス笑う。私一人ダラダラ冷や汗をかいている。
絶海さんは私の前髪を指先ですくうと「汗をかいているじゃないか……風邪を引くぞ」と笑った。
「とりあえず……絶海さんはお母さんの旦那さんになって私のお父さんになったってことなの……?」
「そのようだな。それなりに長いこと生きてきたが勝手に婚姻届出されるのは初めてだ」
「……そんな簡単に流していいことじゃないよね?」
「なにか問題あるか? たかだか戸籍。それもきみが卒業するまでの間の話だ」
絶海さんはおしぼりで私の額や首の汗をぬぐいながら「きみが通いたいところに行けるならそれでいい」なんて言う。息するようにお世話されてしまっている。私はその絶海さんの手を止めて『なんであれ、お世話になるのだから、挨拶しなければ』と、床に頭をつけた。
「どうした?」
「桜川 朱莉と申します。縁も所縁もない私の面倒を見ていただくのは心苦しいのですが、これからお世話になります。何卒よろしくお願いいたします」
「……、……ああ……ウン……、……こちらこそよろしく、朱莉」
たっぷりの沈黙のあと、絶海さんはそう言った。だから恐る恐る顔を上げると、絶海さんは何故か口元をおさえていた。
「……ウン、……上手に挨拶できたな」
「練習してたから……」
私の答えに絶海さんは「フッ」と息を吐いた。なんだろうと思ってみているとその肩が震え出した。
「……ククッ、今更、フフフッ、……今更、名乗るのか! ……フ、ハッハッハッ! おかしな子だな!」
絶海さんは馬鹿みたいに笑い始めた。
どういうことだとヒロさんを見ると、ヒロさんは「若が笑ってら。すごいな、朱莉ちゃん」なんて言うので、頑張って挨拶をした私は無の気持ちになった。『もうどうでもいいや』と肉に箸を伸ばし、一口で頬張る。
そしたら思っていたよりもずっと美味しいお肉で吃驚して、思わず絶海さんの腕を掴んでしまった。
「美味しい! これ、絶海さん、美味しいよ!」
「……ククッ……」
絶海さんは机に肘をついて、額をおさえて俯いてしまった。
「どうしたの、絶海さん?」
「……もっとうまい肉食べたいか?」
「うん!」
「アッハッハッハッハッ!」
「なにがそんなにおかしいの……?」
「ああ、もう好きにしろ。ヒロ、お前も好きなだけ食べろ」
「わーい! ありがとうございます、若! 朱莉ちゃん、思いっきり頼んじゃって!」
ヒロさんが店員さんを呼び、メニュー表を私に向ける。私が店員さんに「最高ランクの全部ください!」と言うと、絶海さんはまたゲラゲラと笑った。
――これが私の上京初日、そうして絶海さんとの出会いだった。
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