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86《それからのお姫様》
開いた手紙には、はるか昔に筆跡まで真似することができたほどに馴染んだ文字が並んでいて、私はそれを眺めながら懐かしい気分になって自然と口元に笑みが溢れた。
「ん?手紙か?」
私の隣に腰を下ろして、ホットミルクを差し出してきたジェイドに礼を言って「そう」と頷く。
「オルレアのミモザ夫人からね」
いたずらめいて微笑めば、彼は少し白髪が混ざった自身の黒髪をかきあげると、「なるほどね」と肩をすくめた。
カップを受け取る時に触れたジェイドの手は、随分と冷えている。どうやら少し前まで中庭にいたらしい。昨晩の内に降り積もった雪は、孫達曰く膝ほどまで積もっているらしい。
「一緒になって遊んできたの?」
顔を顰めてそう問えば、彼は「バレたか」と昔から変わらないイタズラめいた笑みを見せる。
「もうそんな若くもないのだから、ほどほどにね?風邪をひいたらなかなか治らないのだから」
まるで子供をしかるように言えば、彼は「ははは、まだ大丈夫だよ」と軽快に笑った。
「だったら同じ事をシェリンにも言ってやれ!俺が退散する時に、彼女はまだ子供達と雪投げをしていたぞ?アニーが毛布と熱いお茶を持って、困ってうろうろしていたぞ」
「シェリンもなの?本当にいつもしょうのない人達ね!アニーも振り回されてお気の毒様だわ。彼女も風邪をひかないといいのだけど」
心の底から、アニーに同情しながら、大きく息をつくと、全く悪びれていないジェイドはくつくつと喉を鳴らしながらホットミルクを啜っている。
するとコンコンと部屋の扉を叩く音が響いて、ガチャリと無遠慮に扉が開く。
「あれ?父様は戻っているんだ?」
ひょこりと顔を出したのは、私とジェイドの間に生まれた4人目の子供で、今は表向きはジェイドとシェリン夫妻の養子となっているレオナルドだ。
私と同じ亜麻色の髪に、ジェイド譲りのグリーンの瞳を持つ彼は今年25歳になる。
「レオ、こんな時間にどうしたの?」
きょとんとしている私たちの元に歩いてきた彼が。私の前にスッと封筒を差し出す。
「西部のチャーリー義兄上からの書類の中に、ヴィア姉様から母様宛の手紙が同封されていたんだ。」
そう言われて差し出された手紙を見ればジフロードの次男に嫁いだオリヴィアの署名と彼女の印章が押された封蝋がされている。
「あら、ヴィアからなんて珍しい。ありがとう」
彼女もすでに30を越えて、3児の母親になっている。そういえばひと月ほど前、チャーリーの仕事の関係で、隣国のオルレアに行っているはずだ。
きっとその報告なのだろう。
私の礼の言葉を聞くと、レオナルドは「じゃあ俺はそろそろ子供達とシェリン母様を回収してきます」と何でもない事のように、ひらりと手を振って部屋を出て行った。
レオの足音が、回廊のはるか先に消えていくのを聴きながら、私はジェイドが持ってきてくれたホットミルクに口をつける。
今から8年ほど前、この国の王位は、ユーリ様から息子のアルフレッドに渡った。
その名目は、当時の国王であったユーリ様がご病気を患い、治療院に入るためだった。
病気の療養でユーリ様はすぐに治療院に入り、当時18歳だったレオナルドと残された傷心の私は、ジェイドとレオナルドが養子縁組する流れで、一緒にジェイドの離宮に身を寄せる事になった。
そして1年後、治療の甲斐なく先王ユリウス陛下は身罷る事となった。
未亡人となった王太后の私は、その心の傷の深さから末の息子と、古くから仲の良かった義弟夫妻に支えられて、余生を過ごしている。と表向きはなっている。
パチパチと暖炉にくべられた木が爆ぜる音だけが部屋に響く中、私は隣に座るジェイドの温もりと、手の中の紙が紡ぐ言葉をゆったりと味わうことにした。
オルレアは、年間を通して温暖な気候の貿易国家。
今から12、3年ほど前、その国の国王にユーリ様の産んだ唯一の子であるマーガレットが嫁ぎ、王妃となっているのだ。
この手紙は、そのマギーの相談役であるミモザという女性から送られてきたもので、中身には最近の出来事や、マギーの息子の王子達のわんぱくぶりに手を焼いているというような事が書かれている。
そして先日久しぶりにオリヴィアとチャーリーとも再会して彼女達の元気な姿が見られていて嬉しかったと記されている。
「ユーリは何て?」
私が読み終わるのをじっと待っていたジェイドがミルクを飲み終えて覗き込んできたので、私は「ふふふ」と笑って手紙の束をジェイドに手渡す。
手紙の差出人のミモザ夫人…その正体はこの国ではすでに亡くなった事になっている先王ユリウス陛下なのだ。
もう随分とはるか昔、まだレオナルドがお腹にいた頃。彼女が私にお願いした「ワガママ」は、国王としての責務が終わったら、さっさと男性のユリウスの存在を消して、女性らしく生きていきたいと言う事だった。
そして、私や周囲の理解を得た彼女は、時が来ると、さっさと先王ユリウスを葬って。
愛娘の嫁いだ国に、同じく表舞台を退いて隠居という体をとっているジフロードと亡命したのだ。
ずっと着る事の出来なかった衣装を纏い、化粧をして堂々と女性として振る舞い歩くことができる幸せを手に入れつつ、今は王妃の仕事に奔走するマーガレットの精神的な支えにもなっているらしい。
「遅れてきた少女時代を謳歌していらしていたわ。」と言うのは、その後読んだオリヴィアからの手紙で知らされた事だけれど、異国でようやく自分らしく生きる事を手に入れられた彼女を思うと、会えなくなって寂し気持ちはあるものの、やはりこうして良かったのだと思わずにはいられない。
そんな事を思いながら、頬を緩めていると、不意にジェイドが、腰に手を回してきたので、私は驚いてそちらを見上げる。彼の美しいグリーンの瞳が昔と変わらぬ、甘い輝きを放ってこちらを見下ろしていて、私たちはいつものように唇を重ねる。
幼い頃憧れた
『こうしてお姫様は王子様と幸せに暮らしましたとさ』
という物語の終わりとは随分と違う形にはなって、なんなら王子様が入れ替わってしまったけれど。
こうしてお姫様は愛しい王子様だけでなく、可愛い子供達や孫達、そしてかけがえのない友人達と、末長く幸せに暮らしましたとさ。という方が随分と欲張りで贅沢なエンディングのような気がするのだ。
そんな幸福な時間が少しでも長く続けばいい。
暖かなジェイドの胸に抱きしめられて、私はそっとそんな事を考えたのだった。
完
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