クアッカワラビーの笑顔

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 けたたましい音が病院の廊下に響き、何人かがぎょっとしてこちらを振り返った。  私がスマホを取り落としたのだ。  バキバキに割れた画面には、今日のSNSの投稿が映し出されている。 「シドニーのワイルドライフ動物園でクアッカワラビーに会ったよ! 旅先で知り合ったタケちゃんさんと!」  にこにこ笑うワラビーと、にこにこ笑う私の彼女と、にこにこ笑う見知らぬ日本人らしき男性。 「……誰だ」  私は呆然として呟いた。  誰だ、タケって。  ここは精神病棟。入院中の私は、スマホを持つことは今日まで禁止されていた。それまで彼女とは手紙でやりとりをしていて、彼女が親戚に会いにオーストラリアへ行ったこともエアメールで知っていた。  ところが蓋を開けたらこれだ。  私は感覚のなくなった手でスマホを拾い上げ、画面を凝視した。  何だ、このチャラついた男は。  こいつと一緒にオーストラリアを旅しているのか? 私の恋人が?  そんな話は聞いていない。というか、そいつは男だぞ!? いいのか!? 「気に食わねぇ……!」  タケとやらは、似合わないピンク髪をガッチガチに固めて、偉そうに彼女と肩を組んでいる。服装は前時代的なロックテイストのノースリーブで、見ていて気分が悪い。 「こんな男……」  私は鬱病で、しかも女だ。彼女とは同棲しているだけ。入院中の面会は家族以外には禁じられているから、彼女にはずっと会えなかった。寂しかった。田舎の親とは縁を切っていたから、本当に私は孤独だった。  それでも彼女がいるから、なんとか治したいと思って生きてきたのに……。  この男は何故、他人(ひと)の彼女にベタベタくっついている?  忌々しい。クソ羨ましい。スマホ解禁早々にこんなものを見たくはなかった。  お前なんかエミューの大群にでも踏まれてしまえ。そして砂漠の真ん中で野垂れ死ね。 「けっ」  それにしてもこのクアッカワラビーの間抜け面の腹立たしいことといったら。  クアッカワラビー。別名、クオッカ。  オーストラリアの固有種。小型の有袋類で、耳が小さく、体毛は灰褐色。最大の特徴は、とてつもなく幸せそうに見えるその口元だ。「世界一幸せな動物」の二つ名の由縁であるその笑顔は、まるで見る者を小馬鹿にしているかのよう。  そしてお前ら二人は、私を他所に、のんきにクアッカワラビーのように笑って幸せ生きていくというのか。嘆かわしい。  そもそもなんでクアッカワラビーなのだ? 他にもコアラだのカンガルーだのカモノハシだのタスマニアデビルだの、いくらだって珍しい動物はいるじゃないか。知らないけど。どうしてわざわざこんな小憎たらしく愛嬌を振りまくやつをチョイスした? いや実際にはワラビーに罪など全く無いのだけれど、その顔を見れば見るほどムカムカしてくる。  ひゅう、と息を吸い込んだ。  気づけば呼吸が荒くなっていた。  目眩がする。動悸がひどい。胃の中のものが逆流しそうだ。  目蓋の裏にはクアッカワラビーの笑いが張り付いて離れない。幸福そうにモフモフした笑顔が。やめろ。ふざけるな。    よろよろと自分のベッドに戻った。 (思い込みはよくない)  私はなべて男が嫌いだけれど、彼女は男も女も分け隔てなく交流をする。人懐っこくて、明るくて、社交的で、……だからこの男とも、ただの友達に違いない。海外でたまたま会った人と友達になる、そんなことはきっとありがちなことなのだ。多分。 (……でも)  彼女は友達のつもりでも、こいつには下心があるのではないか? だっていきなり赤の他人と一緒にこんなデートじみたこと、普通はしないだろう。どうかしている。  それを言えば、彼女も彼女だ。素性の知れない男と、こんなに楽しそうに二人きりで遊ぶなんて。  彼女に対しても怒りが込み上げてきた。フレンドリーな性格は長所だが、危機感がなさすぎはしないか。私とつきあっている自覚があるのか。堂々と浮気をするなんて……。二人してハリモグラの群れにぶちこまれて傷だらけになればいいのに。  シクシク。  ファッキンビッチ。  今、彼女とスマホで連絡をとったら、ひどいことを言って責め立ててしまいそうだ。でも早く話したい。何が起こっているのか知りたい。  ……五分だ。五分待とう。頭を冷やそう。  ひとまず、気分の落ち込みを抑制するための頓服薬を飲んだ。枕に顔を埋めて、胸中の嵐が去るのを待つ。  ゆっくり……焦らず……穏やかに。  気持ちをコントロールして、病気の症状を抑えるのだ。  呼吸に集中する。腹式呼吸。肩の力を抜いて、空気の流れを意識して。何事も深く考えすぎないようにを余計な思いが浮かんでも、気にせずさらりと流すのだ。 「フゥー……」  日中を過ごすこの空間は、自由で開放的で、リラックスできるように工夫されている。壁は木目調で、大きな窓から陽が差し込んでいて、庭からは緑の木々がよく見える。自分のスペースには好きな本やぬいぐるみなんかも持ち込めるし、部屋着でゆったりとくつろげる。  だから、何もつらく思う必要などない。つらくない、つらくない、……つらくない。  五分経った。現在はちょうど十五時を過ぎたところ。シドニーの時刻は十六時過ぎである。  気分を復活させた私は、再度バキバキのスマホを開いた。久々に彼女にメッセージを送る。 『こんにちは。  スマホ使用許可が出たよ!  オーストラリアはどう?  タケちゃんて誰?』  ポン、と画面をタップすれば一瞬でメッセージは送信されてしまう。  ちょっと、直截すぎたかな。嫉妬心が見え見えで、警戒されてしまうかもしれない。  でもこれくらいは言わないと、私が彼女を気にかけていることは伝わらない……などともやもや考える間も無く、すぐに返信が来た。彼女は頻繁にスマホを触るたちなのだ。 『おめでとう! やったね! これで毎日お話ができるね』 『うん。ありがとう』 『タケちゃんなんだけどさ……聞いてよ。  さっきいきなりプロポーズしてきたから、蹴っちゃった』 (!?)  私は、目を丸くして文面を見つめた。    悪い予想は当たってしまった。しかし、彼女は自力でそれを叩き潰した。 『会って一日しか経ってないのに、俺と一緒にオーストラリアで暮らしてくれ、だってさ! あんまりしつこくて、しまいにはスカートに縋り付こうとしてきたから、思いっきり足蹴にしちゃったんだよねー』  あ、蹴ったというのは、話を断ったのではなく、物理的に蹴っ飛ばしたという意味だったのか。 『待って、今すごく混乱してるんだけど。あんたは無事なの?』 『ダイジョーブ!』  それなら、良いけれど。  うん。良かった。ほっとした。  彼女の身に危険は及ばなかったし、彼女は私を置いてけぼりになんかしていなかった。  彼女の不義理を疑った自分が恥ずかしい。私の恋人が、そう簡単にむごい真似をするはずがないのに。会えない期間があんまり長かったものだから、不安になってしまった。 『それで、ちょっと考えたんだけどさ』  彼女はそう書いて寄越した。 『私たち、オーストラリアに引っ越さない?』 (……はい?)  何故いきなりそういう発想になる?  私は彼女と違って、海外に行ったことすらないし、英語は苦手だし、病気は治っていないし、あちらで生活なんて、とてもとても。 『あ、もちろん、病気が良くなったらで! いつまでかかってもいいから』 「でもどうしていきなり海外移住なんて……」 『だって日本だと私たち結婚できないでしょ?』  ストレートすぎる言い方に、私の心臓は跳ね上がった。 『あなたはちょうど仕事を辞めているところだし、日本に頼れる親戚もいないでしょう。私の家族も、こっちへおいでって言ってるの。ちょうどいいと思わない?』  私は急激に熱くなった頬に両の手を当てた。  け、けけけ、結婚!  そうだ、オーストラリアでは、随分前から同性婚が認められているのだ。いや、オーストラリア以外にもいろんな国があるけれど、とにかく、二〇二一年現在、日本と違って、オーストラリアはそうなのだ。 『あなたの体がよくなったら、本格的に引っ越したいんだけど。  どうかな』  ギャーッ。  もう、ウワーッ。  言葉にならない叫び声が頭の中を駆け巡る。 『心身の調子が悪い時に、こんなこと言ってごめん。決断はゆっくりでいいからね。何年でも待つよ』  そんなことない。早く、早く返事をしなくては。  キーボードを打つ指が震えている。ああもう、画面が割れていて文字が打ちづらい。 『よろしくお願いします』 『え、いいの?』 『もちろんだよ』  こんな幸せなことが、私の人生にあるだなんて、思ってもみなかった!  この前までこの病院でひたすら孤独に生きてきた。それがまさか、こんな夢みたいなことを言ってもらえるなんて。  私はスマホを閉じて、布団の中で足をばたつかせた。  胸の中がぽかぽかしている。頬が緩んで仕方がない。  自然と笑いが漏れた。  ああ、鬱病なんて吹き飛んでしまいそう。このまま快癒して、本当に復活してしまえばいいのに。  きっと今私は、クアッカワラビーのように幸せに見えるに違いない。だって、今度は他の誰でもない、この私が、いつでも好きな時に、ワラビーを背景に彼女とツーショットを撮れるということなのだ。別に撮らなくてもいいけど、ともかくそういう権利を私は持っている。  最高の気分だ。  今なら地球上の全ての動物を愛おしく思える自信がある。何しろ今の私は、あっという間にワラビーを追い越して、世界一幸せな動物になったのだから。
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