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私は怯えた。此方へこいと声がする度に、体をこわばらせて怯えた。
「コッチヘコイ」
「いきたくない」
そんなやり取りだけが暗闇の中に響いていた。
やがて、その音は戸の向こうから聞こえなくなった。私は息を吐いて体の力を抜くことができた。
部屋には再び沈黙が戻った。
戻ったように思えた。
隙間がある壁からカリカリと音がした。私はどきりと胸を跳ねさせ、その壁から遠ざかろうとした。
しかし、その時ふと懐かしい音が耳に届いてしまった。
亡くしたはずの、愛犬の声だった。
私の耳はしっかりとその声を覚えていた。何度も聞いた愛らしい声。
私の頭の中には、生きていた頃の無邪気な愛犬のぬくもりが蘇っていた。
ああ、いるんだ。そこにいてくれているんだ。あの子は生きているんだ!
私は壁に寄っていった。あんなにも拒絶していた声のしていた場所へ、自分から望んで近づいていったのだ。
どんなに自分で「もう大丈夫」と思っても、実際はそんなことはなかった。長年家族として生きてきた愛犬の死を、自分は未だに乗り越えられていなかったのだ。
もういないとわかっているはずの愛犬の声。それを耳にした私は喜んで駆け寄った。
愛犬の声のようなものはあの隙間から聞こえていた。
隙間をよく見ると、さっきよりも広がっているような気がした。そう思ったのも一瞬のことで、私の意識はいないはずの愛犬の方へと向いてしまった。
その声は壁のすぐそばから聞こえていた。犬の鳴き声が壁の近く、それもさっきまで別の声が聞こえていた壁向こうから聞こえていた。
実際は声などしていなかったのかもしれない。だが、私の耳にはそう聞こえてしまったのだ。
壁の向こうにはあの子がいる。そう思い込んだのである。
もちろん何処をどう探したとしても犬なんてどこにもいるはずなどない。私の愛犬は、もう一年以上前にこの世を去ったのだ。
息を吸うことも吐くことも止め、血液が体内を回らなくなって冷たくなり、硬くなったその最期を私はしっかりと覚えている。
私の愛犬は確かに死んだのだ。
そう、確かにあの子は死んだ。私とは別の世界へ逝ってしまったのだ。
しかし、解っていながらも私は心のどこかでまた会えると期待してしまっていた。そんなことあるはずがないのに。
「わん」
力ない声が聞こえた。私を呼ぶ犬の声だった。何度も聞いた声だった。
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