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厚い雲が月を覆い隠す。
真昼のように照らされた街中から少し離れると、穏やかな波音の届く住宅街が広がっていた。昼間は土産の露店でにぎわっていた通りも寝静まり、民家の扉はどれも固く閉ざされている。
闇夜に荒い息遣いと、渇いた靴音が響く。靴音はひたすらにネオンの方角を目指し駆けた。
騒がしい街の光は、まるで別世界への入口のようにまばゆく輝く。
細い踵の先端がわずかな段差にひっかかった。「あ」と。呆けた声が赤いルージュのひかれた唇から漏れる。
よろめいた拍子にサンダルの金具が弾け飛ぶ。
なす術もなく、女は冷たい石畳の上に倒れ込んだ。噴き出す汗が首筋をつたう。
「せっかく楽しい旅行に来たのに、かわいそうだナー」
「!」
かけられた言葉とは裏腹、その声は笑みを孕んでいる。
短い悲鳴をこぼし、女は擦りむいた四肢でぎこちなく上体を持ち上げる。
「この街じゃ、夜の外出は命がけなんだよ? ガイドマップ読まなかった?」
「それとも始めからその気だった? だったら、せっかくだしオレたちとお食事しようよぉ、お姉さん」
彼女を見下ろす3人組の男はニヤニヤと口角を持ち上げ、徐々に距離を詰める。
喉を引きつらせた女はサンダルを拾い上げてなおも裸足で走り出した。
息を切らし再度、ひたすらに街の明かりを目指す。
「おい。どこまで追う気なんだ?」
「あんまり遊んでるとヴェルデンのイヌがきちまうぞ。とっととやれ」
「っ……!」
男の1人がその行く手に立ちふさがる。
つい先ほどまで後ろにいたはず。
足を止め、自身の前後を交互に見る彼女の様子に、男たちは舌なめずりをした。
街灯のない暗がりの中でもその目はまっすぐに獲物を捕らえ、爛々と輝かせた。
「このところ汚ねぇホームレスかヤク漬けばっかだったからな! 若い女とか久しぶりだよなぁ! どんな味だったっけかなぁ……?」
男が口を開けると、常人にはおおよそ見られない鋭利な歯がズラリと並んでいた。
それを見て、女はその場にへたり込んでしまった。鞄を抱きしめ、体を震わせ身を縮める。
男は声を上げて笑い、女の首を目がけ腕を伸ばす。
静まり返った街の夜空に、渇いた音が響き渡った。
「……あれ?」
雲が晴れ、半分に割れた月は顔を覗かせる。月光を受けた冷たい石畳が赤黒く色づいていった。
男は自身の胸に手を当てる。べったりと手が濡れ、バタバタと鮮血が流れ落ちていく。
軽い金属音が石畳を跳ねていった。
「あーら、ごめんなさい。あいにくと、持ち合わせは鉛弾しかないんだけどお気に召すかしら?」
目を瞬く男の眼前で、白い硝煙が立ち上っていた。
前髪をかきあげ、女は不敵に笑う。
呆気に取られる男をよそに、彼女は軽やかに体を起こした。石畳の上を、白い素足が踏み込む。
「ぎゃっ?!」
勢いよく振り下ろされたサンダルの踵が男の頭部を直撃する。もはや凶器と化したヒール部分が男の額を割き、視界を赤く染める。潰れた悲鳴をあげてよろめく男に、壊れたサンダルと、穴のあいた肩かけ鞄が投げつけられた。焦げた穴から火薬のにおいが漂う。
狼狽しながらも視界を妨げる額の血を拭った男の目の前には、無機質な丸い空洞があった。
2発目の銃弾が青ざめる男の顔を吹き飛ばす。
生温い血と肉片が顔にまとわりつき、2人の男は悪態をついた。
「教会の囮かよ……!」
先ほどまでの慎ましい姿は何処へやら。女はにぃ、と口角を吊り上げる。
ぬるい潮風にブロンドの髪がなびく。その手には白銀をまとった大口径のハンドガンが握られていた。
「聖典教会、鬼種討滅第13部隊所属、マリア・ベルだ! 食人行為による殺人容疑、死体遺棄、えー……そのほか諸々! およびアタシのサンダルを壊した罪を悔い改めろ!」
威勢よく名乗った後。女がグリップを強く握ると、銃身は呼応するようにより強く銀を帯びた。
頭を吹き飛ばされた死体に目もくれず、残された2人は身をひるがえし暗い十字路を左右に別れる。
左手へ曲がった男の腕を銃声が掠めた。男はもんどりうちながらも、瞬く間に路地から海岸沿いのランニングコースへと飛び出た。
寄せては返す波音。心地よい潮風。月明かりの美しいビーチ。しかし観光客の姿はひとつもない。
穏やかな波は打ち寄せては水平線へと引き戻される。
「いくら教会の連中でも、生身の足じゃ追い付けはしないだろ……!」
汗を垂らし男は全速力で走り続けた。足をバネのようにしてガードレールをのり越え、路駐された車も難なく飛び越える。男はビーチの脇に並ぶ屋台の陰に滑り込み、背後へと目を凝らした。銃声が追ってくる様子はなく、やはり美しい夏のビーチは閑散としていた。
男は大きく息を吐く。その耳にヒュッと、鋭い音が迫る。
暗がりから放たれた一本の矢は、男の頭部を正確に撃ち抜いた。
「……ビーチの方は片付いたわ」
男の体が倒れるのを見届けた射手は、古い町並みを見下ろす電波塔の上から手短に状況を報告する。
そんな彼女の無線機からは軽快な口笛が返ってきた。
「ナーイス! さすがローザ!」
「先に引き上げるわよ」
「はいはーい。こっちは任せてちょうだい!」
ねぎらいも早々にマリアも前方を見据えた。
最後に残った男の背を追いかけ、狭い路地を駆ける。男の脚はワゴン車どころか、背丈以上あるフェンスすらも軽々と乗り越えていく。
害獣避けの有刺鉄線を憎々し気に見上げたマリアは悪態をつき、再度無線へと呼びかけた。
「アル? アルフレッド! 寝てるんじゃないでしょうね?!」
「あー。ハイハイ……。先で待ち伏せてた第2部隊がお怒りでね。クレーム対応に忙しかったんだ」
マリアの呼びかけに、今度はため息まじりの応えが返ってきた。
「こっちだって好きで夜勤してンじゃないわよ」
「あとはレイモンドに投げておいたから自分でどうにかするだろ。……そこ、右に曲がると民家の屋根に上がれるから、屋根づたいに進んで露店街を北側へ抜けてくれ」
無線の声に従いマリアは一度、男を視界から外す。
指示通りに古びた非常階段を駆け上がると、眼前には星の散らばる夜空が広がった。波の音は遠ざかり、ネオンの街が迫ってくる。無線越しに淡々と誘導の指示が続く。
「ちょうど左手のATMのカメラに映ったぞ」
「オーケー!」
口笛を吹き、マリアはレンガ造りの屋根を蹴る。3階建ての建築物の上から難なく目の前に着地してきた女の姿に、男は瞠目した。
「本当に人間かお前?!」
「は……? ずいぶんと失礼な物言いじゃない?」
「サンダルで鬼種を殴り付ける人間なんて見たら誰だってそう思うだろ」
「あらあらー。ずいぶんと命知らずネー。アルフレッドくん?」
無線がぶつりと切れた。
男は彼女に対し、牙を向き、腕を振り上げる。まるで獣が唸りを発するその姿に、マリアはにんまりと笑い銃口を向ける。
「次はダンスのお誘いかしらね、ギュンター?」
暗がりに白銀がぼんやりと輝く。
男の脚が地面を蹴った。引き金にかけられた指へ力がこもる。
半分に割れた月が輝く夜空を、銃声が貫いた。
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