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Episode1 王様のため息
Episode1 王様のため息
「果菜…お前な、いつになったら俺を『進藤さん』って呼ぶのをやめるんだ」
「え、いつ?って・・・いつでしょう?」
ふざけてんのか、お前は。
首をかしげる果菜の頬をぶにっとつかんでちょっと引っ張る。
「いだぁあいい~ひんろーしゃん、ひどぉ~い」
ダメだ、そんな可愛い顔してちょっと涙目になってみせても。
「だから『進藤さん』ってのをヤメロ。何回言ったら変えるんだ」
果菜は俺に引っ張られた頬をさすさすとさすりながら、
「だって」と困った顔をする。
だから、それも可愛いからやめろ。
今日もこれから仕事に行かなくてはいけないのに、そんな顔されたら襲いたくなって困るじゃないか。
プロポーズも済ませ一緒に暮らしているのにもかかわらず、果菜は俺のことを出会ったときのまま『進藤さん』と呼ぶ。
いや過去、名前で呼ばれたことが数回はあったが。
1度目はプロポーズの日。
新居を探す際に「月がきれいに見えること」という条件で探したと果菜に伝えた時、確かに言った。
「ありがと、貴斗」と。
果菜の笑顔はどんな宝石よりも輝いていて、その時、名前で呼ばれたことよりも彼女の溢れるような笑顔のほうが印象が強い。
2度目はうちの両親に会わせた時だった。
当たり前だが両親も弟も全員”進藤さん”なのだから仕方なかったのかもしれないが、その日は俺のことを『貴斗さん』と呼んでいた。
以上。
過去2日間のみだ。
「いい加減にしろよ」
「でも、自分だって何て呼んで欲しいんですかって聞いたって何も言わないくせに」
頬を膨らませてスネ気味の果菜が呟く。
「果菜の呼びたいように呼べばいいだろ。ただ『進藤さん』はやめろ」
ごく普通のことのはずなのに、なぜか「むうぅ~」っとうなり声をあげる果菜。
「大体なんで名字にこだわるんだ」
「進藤さんだってどうして呼び方にこだわるんですか!」
珍しく俺に食って掛かる果菜におやっと思う。
果菜は頑固だけど、何が何でも譲らないっていう頑なな女じゃない。
俺が知る限り、俺が提案したことできちんと説明する手間を惜しまなければ、理不尽なことで無い限り彼女が譲らなかったことなどほとんどない。
果菜の顔をよく見ると、下唇を少し噛むようにして何かを耐えているような表情で。それは怒ったりしている時の果菜の表情じゃない。
「果菜」
手招きをすると、黙ってこちらに近付いてくるからぐいっと引き寄せて胸の中に閉じ込めた。
ん、っと小さな声をあげたけど、おとなしく俺の胸にもたれる。
なんて可愛い俺の彼女。
「誰かに何か言われたんだろ」
びくっと果菜の肩が揺れた。
ああ、当たりか。
「誰が、何だって?」
ゆっくりと果菜の頭を撫でながら静かに問いかける。
「…あのね、業界の中で進藤さんのことをね、年下なのに『タカト』って呼び捨てで呼んでる女性は進藤さんとその、うんっと…そういう関係になったことのある人なんだって…」
消えそうな程の小さな声で俺のシャツをギュッとつかんで彼女は言った。
は?
そういう関係ってーーー
「誰だ、そんなつまんねー嘘、果菜に吹き込んだヤツは」
果菜が怖がらないようにできるだけ抑えながら声を出した。
「ごめんね、私も嘘だってわかってるの。でも、どうしてもなんか、そんなこと聞いちゃうとね。気になってっていうか自分もその中のグループのひとりみたいな・・・その、ちょっと」
果菜は俺にしがみついたまま顔を上げない。
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