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(申し訳ありません!!!!)
蛍里は持っていた盆でその部分を隠しな
がら、思いきり小声で叫んだ。
きっと、叱責されるに違いない。
そう覚悟して、恐る恐る榊専務の顔を覗き
見た蛍里は、次の瞬間、今度は別の理由で頬
を紅潮させる。
(大丈夫。気付いたのは僕だけです)
そう囁いた彼は、やんわりと優しい笑みを
浮かべていた。
蛍里は初めて見るその笑顔に、釘付けになってしまった。
-----あの榊専務が、笑っている。
しかも、極上の笑みと呼べるような、優しい顔をして。あまりに驚きすぎて、ぽーっとしてしまった蛍里に、彼はいつもの表情を取り戻すと、じゃあ、と専務室へ戻っていった。
パタン、とドアの閉まる音がして蛍里はよう
やく我に返る。胸が痛いほど、どきどきしている。
顔も熱があるように、熱い。
どうしてだろう?
蛍里は鼓動を静めるために胸に手をあてると、誰もいない廊下でそっとファスナーを上げた。
結局、その日の作業は就業時間が過ぎても終わらなかった。理由は、昼間、偶然見てしまった榊専務の笑顔が頭にちらついて仕方なかったからであって、寝不足で頭が働かなかったからではない。むしろ、あの笑顔で蛍里の眠気はどっかに吹っ飛んでしまっていた。
そんな理由を知らない結子が、斜め前の席から顔を覗かせる。
「どこで躓いてるの?手伝うよ」
自分の担当するミーティング資料作成をきっちりやり終えた結子が、仕事に行き詰っているらしい蛍里を見た。
蛍里は苦笑いしながら、首を振る。
「出納管理ソフトの数字と、店長が上げた伝票の数字が合わないんですけど……大丈夫です。たぶん、お店の仕入れ額が違ってるんじゃないかと思うので……」
ぱらぱら、と仕入れ伝票の束をめくりながら、蛍里は息をついた。どうしても、今日合わせなければならない数字ではなかったが、明日に回すのも面倒くさい。
この伝票を照らし合わせれば、すぐに解決しそうだった。
「そう?じゃあ、悪いけど先に帰るね」
「はい。お疲れさまです」
大丈夫だと笑う蛍里に、結子はほっとした
ような顔をして席を立った。新人なら放って
おけないが、一通り業務を理解している蛍里
なら、自分で解決できると思ったのだろう。
デスクから鞄を取り出して、ロッカーへと
向かう。蛍里はその背中に「お疲れさまです」ともう一度声をかけると、伝票を手にパソコンを向いた。
「きれい……」
仕事を終え、建物を出て空を見上げると、
薄雲の合間から満月が白銀の光を放っていた。
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