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「経費」のその一言にホッとして、蛍里は
素直に頷く。まさか、専務にご馳走になるわ
けにもいかないし、「僕が出すから」なんて
言われたら断ろうと思っていたのだけど……
安心してメニューを見始めた蛍里は、コース
料理ではなく、参考になりそうな料理を専務
とピックアップしながらオーダーした。
「お待たせ致しました。カブと人参を使っ
たテリーヌ鰆の燻製添えと、グリル野菜と
チキンのぺヴェラーダソース添えでござい
ます」
真っ白な皿の真ん中に、上品に盛り付け
された料理が並ぶ。彩も華やかで、何だか
食べてしまうのが勿体ないと思っていた蛍里
に、専務は赤ワインではなく、100%の
ぶどうジュースが注がれたグラスを「乾杯」
とかざした。
同じものが注がれたグラスに蛍里も口を
つける。ただのぶどうジュースが、高級感の
あるインテリアに囲まれて飲むだけで別の
飲み物に感じるから、不思議だ。
「美味しいですねぇ」
蛍里はグラスの半分ほどまで減ったジュー
スを眺めながら、ほぅ、とため息を漏らした。
専務が白い歯を見せる。
「お腹が空いているから余計に美味しく
感じるんでしょう。勤務中でなければ、本物
のワインを注文するところですが。さて、
料理が冷めないうちに、いただきましょうか」
そう言って取り皿を手にすると、榊専務は
手際よく、綺麗に料理を取り分けた。
蛍里はそのスマートな彼の振舞いに、思わ
ず見惚れてしまう。本来なら、こういうこと
は女性であり、部下である自分の役目だと
思うのに、そこをあえて気にしないのが紳士
的だ。
はい、と差し出された皿を手に、蛍里は
はにかんだ。
「ありがとうございます。すみません、気が
利かなくて」
笑みを浮かべたままで、専務が小さく首を
振る。昨日、初めて見たばかりの笑みが、
いまは当たり前のように目の前にある。
何だか、蛍里は夢を見ているようだった。
いただきます、と蛍里が食べ始めると、専務
は視線を料理に落としたままで言った。
「そういえば、このところ疲れているようで
すが、何か悩み事でも?」
唐突に、榊専務からそんなことを訊かれた
蛍里は、口に運びかけたフォークをピタリと
止めた。
「えっと……そう見えますか?」
「まあ、僕の目には。さっきも眠っていた
ようだし、昨日からのあなたの様子を見る限り
では、睡眠不足なのかと思って。何か、眠れな
いほどの悩みがあるなら話を聞きますよ。これ
でも僕は上司ですから」
そこまで言って顔を上げた専務に、蛍里は
数々の失態を思い出して頬を染める。そう言え
ば、さっきは専務が運転する車の中で居眠りを
してしまったのだ。
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