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いくら寝不足とは言え、上司が運転する車
の助手席で眠りこけるなんて、気が弛んでいる
と呆れられても仕方ない。
「本当にお恥ずかしいというか。助手席で
居眠りなんかしてしまって、申し訳ありませ
んでした」
フォークを皿に戻して肩を竦めてしまった
蛍里に、専務は穏やかな声で「顔を上げて」
と言った。そうして、言葉を続ける。
「別に、責めてるわけじゃないんです。
ただ、眠れないほどの悩みがあるなら、相談
に乗りたいと言っているだけなんですが、僕
じゃ話す気になれませんか?」
怖ず怖ずと蛍里が顔を上げると、専務は
真摯な眼差しを向けていた。そのことに驚い
て、蛍里は無意識に首を振る。
こんな風に、一社員に過ぎない自分のこと
を心配してくれるなんて……。
今まで冷たいとさえ思っていた榊専務が、
今はまったくの別人に見えてしまう。
じぃ、と食事の手を止めたままで蛍里を
見つめる彼に、蛍里は顔の前で手を振りな
がら言った。
「すみません。本当に、悩みなんかない
んです。何も。ただ、小説サイトを読むの
が楽しくて、ついつい夜更かしが続いてし
まって……それで」
「小説サイト?」
「はい。個人の小説サイトです」
そこまで言ってしまってから蛍里は、
さて、どうしたものかと内心首を捻った。
職場のデスクに置いてあった本のことや、
詩乃守人という作家に陶酔していること
などは、伏せておきたい。何となく、“彼”の
存在は自分だけの胸に秘めておきたかった。
だから、“小説サイト”と口走ってしまった
ことを、後悔する。蛍里は、ちら、と視線
を他所へやりながら、小首を傾げた。
「あの、わたし子供の頃から読書が趣味
で、本を読みだすと面白くてつい時間を忘れ
てしまうんです。最近は偶然見つけたアマ
チュア作家さんの小説サイトが気に入って
いて……。近頃は、手軽に読める電子書籍
というものを利用する人が多いと思うんです
けど、わたしは紙の温もりや確かな存在感が
ある紙の本しか読んだことがなかったんです。
でも、その作家さんの小説だけは、そういう
ことも気にならないくらい、物語も文章も
素敵で……それで、つい夜更かしが続いてし
まいました」
そこまで言って視線を戻すと、蛍里は
どきりとした。
あまりに優しい眼差しが、自分を待って
いたからだ。
手にしていたフォークを皿に置き、蛍里
の話に耳を傾けるように、専務はテーブルの
上で腕を組んでいる。こんな目で、じっと
見られていたのかと思うと、蛍里は恥ずかし
くなってまた顔を伏せた。
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