第一章:詩乃 守人

7/9
前へ
/104ページ
次へ
 けれど、どちらかと言えば、蛍里は彼が苦手 だった。  近寄りがたいのだ。  あまりにも完璧すぎて。  どんな時も冷静沈着で、毅然とした態度を 崩さない彼の笑顔を、蛍里は入社してから此の 方、一度も目にしたことがない。  そういう自分だって、愛想がいいわけでも、 表情が豊かな方でもないのだけれど……。  端的に言うと、榊専務は蛍里にとって親し みやすい相手ではなかった。  「ショック受けるってことは、五十嵐さん、 榊専務のこと好き“だった”んですか?」  果たして過去形にしていいものか、と、 一瞬迷いながらも蛍里は結子の顔を覗く。  すると、結子は吹き出すように笑って、 違う違う、と首を振った。  「別に狙ってたわけじゃないわよ。手が届く 相手でもないし。ただ、カッコイイ人が人の物 になっちゃうのが寂しいだけ。そういうのって ない?あ、折原さんは、本の中の王子様に恋し ちゃうタイプだっけ。恋に恋する文学少女的な」  揶揄うようにそう言って、結子がネコ科の目 で蛍里を覗く。  蛍里は別段、気を悪くするでもなく、結子に つられるように口元で笑うと、小首を傾げた。  「そこまで本の世界に陶酔してるわけじゃな いですよ。ただ読書家というだけで、恋愛は ちゃんと現実の男の人としてます。って言うか、 してました」  「ふうん。じゃあさ、いま、うちの会社で 気になる人とかいる?入社して2年も経てば、 オトコ探す余裕も出てくるでしょ?」  興味津々と言った様子で結子が身を乗り出 す。蛍里は、ええ?と唐突な質問に戸惑いな がら、社内で何人か知っている顔を思い浮か べた。そうして、首を振った。  「特には……いないです、けど」  「けど?」  「そういう五十嵐さんこそ、誰か気になって る人いるんですか?前の彼氏さん、別れてから ずいぶん経つじゃないですか」  失礼とは思いつつ、蛍里は先輩の交際歴を 蒸し返す。  結子は美人なのだ。  ちょっとメイクが濃い目ではあるけれど、 目鼻立ちが華やかで、赤い口紅が良く似合って しまう。それに対して、蛍里はお世辞にもメイ クが映える顔立ちをしているとは言えなかった。  良く言えばすっぴん風メイク。  悪く言えば手抜きメイクで、蛍里の化粧ポー チにはヌードカラーの口紅が1本しか入って いない。  そんなわけで、結子に好きな人がいるのか、 いないのかは、蛍里も少しは気になっていた。  心なしか、結子の表情が硬いものに変わる。
/104ページ

最初のコメントを投稿しよう!

273人が本棚に入れています
本棚に追加