秋の話

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秋の話

 機嫌の良い太陽が銀杏の鮮やかな黄色を輝かせ、茶色く焦げた葉っぱを踏み締める足先を仄かに温かく染め上げる。頬を掠める風は重く冷たく、けれど薄手のロングコートを羽織った身体を凍えさせることはない。  都内の外れは行楽シーズンであったところで巡る場所も少なく、観光客の姿はとんと見かけない。すれ違う影がぶつかってしまう心配もないから、穏やかな気候は晴れやかに出掛けるのに最適だ。深月は四人で住む一軒家から程近いアパートで母親を拾い、以前から気になってチェックしていたカフェへと入った。 「へー、メニューも色々とあるのね、ここ」 「ご飯系も種類多いから、昼間に来たかったの」  広くも狭くもない店内はテーブル席のみが置かれていて、ゆったりと空間が取られているからか、満席に近い状態でも隣を気にする必要はない。通された窓際の二人席には三つの秋桜が飾られ、差し込む光につらりと花びらが光っている。白とピンク、それから濃いブラウンは、丹精込めて作られたチョコレート菓子のようだ。  深月はこうして、一人で生活を送っている母親を何処へなりと連れ出していた。父親は深月がまだ上手く立ち上がることさえ出来ないくらい幼い頃に亡くなり、それ以降はずっと母親がたった一人で深月を育ててくれていた。  育児というものはそれだけでも大変なのに懸命に働いて、時には無理を押し通して、深月が不自由を覚えないよう養ってくれたのを知っている。親の務めだと言い張って大学の費用まで出すと言い出したときには随分とひどい喧嘩をしてしまったが、奨学金の返済に追われないで済む今に感謝は尽きない。  自分が同性愛者だと理解したときから、深月は死ぬまで独り身なのだと信じていた。少数派だと胸を張れる自信もなく、悩みや葛藤として外に吐き出すことも出来ず、再婚はしないと決めているらしい母親とずっと、ぼろっちい1Kのアパートで暮らしていくのだと思っていた。それでいいとさえ、思っていた。  だけれど萌と出逢って、付き合えるようになって、一緒に暮らして。想像していた未来とは全く別の世界へと進んでいる。心配なのは一人残してしまった母親のことばかりであったが、こうして定期的に顔を合わせるといつだって楽しそうに毎日の出来事を話す母親の姿に、深月は尊敬と安心を浮かべていた。 「決めた。深月は?」  五十をしっかりと跨いでいる母親は若々しく、皺の刻まれる様子もない。今日だって肩で揃えられた髪の毛の艶やかさと、薄く色付けられた唇の色っぽさに娘の立場でも賞賛の声を上げてしまったほどだ。誰のためでもなく、ただ自分のために己を飾り立てている母親は惚れそうなほどに格好いい。  綺麗に口角を上げて微笑む母親からはきらめきが瞬いているようで、深月は思わず目を細めてしまう。ちょうど二回り違う母親に負けないくらい、深月もお洒落をしてきた。レース調の黒いワンピースは蔦の這う刺繍が繊細で、通り過ぎた足を返して買いに行ってしまった一目惚れの洋服だ。併せたショートブーツも華奢な作りで、トレンチ風のロングコートを羽織ると上品で落ち着いた雰囲気を形作ってくれる。  いつもより三十分早く行かなければならないと慌てて玄関を潜った萌も、海青の買い物に付き合うのだと微笑む櫟も、随分と強く褒めてくれた。くすんだピンクで纏めたメイクも、何が入るのだと海青に揶揄われた小さな鞄も、今日の主役であるワンピースにはよく似合う。  それでも、この母親には勝てないと思ってしまう。タイトなデニムパンツにざっくりと編まれたクリーム色のニット。ゴールドのネックレスは結婚前に父親が贈った唯一のプレゼントなのだと、出掛けるときはいつでも母親の首元を可憐に飾っている。  シンプルで、特別なものは何ひとつ施されていないのに、この母親はいつだって輝いている。真っ直ぐに、自分に正直に生きていれば母親のようになれるのだろうかと、思考の端をぬるい手のひらが撫ぜていく。  母親はキッシュのプレートを、深月はハンバーガーセットを注文し、レモンとミントの浮かぶ冷水で唇を潤す。鼻に抜けていく酸味が爽やかで、母親と二人同時にそっと息を吐き出した。それに微笑みを溢したのは母親が先で、他愛のない話が緩やかに続く。 「どう、最近は忙しいの?」 「そこまでかなぁ。残業は絶対したくないし、させたくないし」 「母さんはこれからが忙しいから、今週はいっぱい休むのよ!」 「何買いに行きたいの? 洋服?」 「去年まで使ってたコートが駄目になっちゃったから、深月が選んでよ」 「えー、丸投げ? それ一番難しいやつよ」  気軽に投げては、易々と打ち返されてくる言葉に深月の頬は上がったまま下がらない。友人のような心地で言い合える関係性は何年経っても変わらず、母親の持つ豊かな心に頭は上がらない。親も子も等しく同じだと笑い飛ばしてしまうのは母親だけの強さで、見習いたいと思う部分の筆頭だった。  忙しくなる、と嫌そうに眉根を寄せてみても、母親は今の仕事を十分に楽しんでいるようで、子ども心としては嬉しくなる。今日の晴れた秋空に負けないくらい涼やかに笑って、この間はこういうことがあった、と話していく母親に深月はただ頷くだけでとやかく口は挟まない。萌は年の離れた櫟をよき相談相手として慕っているが、深月が同期の海青よりも彼に親しみを感じるのはお喋りな母親の影響が大きいだろう。 「深月はどうなの? 萌ちゃんと仲良くやってる?」  さらりと、連発したハプニングの続きとばかりに告げられた名前に深月は喉奥に酸味をつっかえさせる。ぐ、と空気を吐き出すことも出来ずに、嫌にこもった音が無様に溢れかえっていった。 「深月……? どうした、何かあった?」  苦しさに細めた視線の先で、少し前まで楽しそうにはしゃいでいた母親が眉尻を下げている。沈黙の下りた二人の間を、店内に満遍なく漂うバターの甘く焼ける香りと、テレビドラマの主題歌として流行っているバラードがやんわりと包み込む。隣に座っているカップルは二つのパンケーキを半分ずつ分け合っていて、それが無性に羨ましくなった。 「何か、ってほどじゃないんだけどね」  母親の心配を他所に思い出すのは萌のことばかりで、吐き出してしまうかどうか迷ってしまう。萌は両親に上手く理解してもらえず、そのことが起因となって自分たちの関係を知られるのを酷く嫌がった。大家である老夫婦に知られたと海青が話してくれたとき、彼を料理の師として懐いている萌にしては敵意を剥き出しにして怒り、今でも曖昧な空気が二人の間を流れている。  深月が母親にカミングアウトしていることも、愛することに同性も異性もないだろうと笑って受け入れてくれたことも、毎日を共に暮らす三人には伝えている。借りた一軒家に母親を呼んだことはないが、偶々萌と出掛けたあと実家に寄ったことがあり、軽い挨拶だけは済ませていた。  無関係を装う他人ではないし、反対されているわけでも、否定されたわけでもない。それでも躊躇ってしまうのは、これまでの経験上仕方のないことだと言えた。  真っ直ぐに交わった視線にどうするべきか迷っていると、白いシャツにエプロンを纏ったウエイターがセットのサラダとスープを運んできてくれる。焼き目のついたきのこのサラダには薄く切られたかぼちゃが乗せられ、スープにも一口大の野菜がごろごろと気持ちよさそうに浮かんでいた。  言葉の区切ったタイミングに揃って両手を合わせ、続きは一旦保留だと目の前の食事に向き合う。母親の頼んだキッシュはそれからすぐに運ばれてきて、深月のハンバーガーも程なく机の上に並べられた。 「みんなは、元気にしてるの?」 「……うん。けど、ちょっとぎすぎすしてる、かな」  積み上げられた具材を溢さないように両手で掴み、持ち上げたところで母親ににっこりと笑みを向けられた。暑さが止んだと思ったら急に下がった気温に体調を心配してくれているのだとは分かるのだが、深月はそれよりも家の中に充満する澱んだ空気に溜息を吐きたくなる。  これが単純で可愛らしい喧嘩なら謝って仲直りすればいいだけの話ではあるのだけれど、如何せん身内が絡んでくると感情が深く邪魔をしてしまう。何てことのない話をして、くだらないことで笑い合って、萌の作ったお菓子と櫟の淹れてくれたコーヒーで穏やかな昼下がりを過ごしたい。 「何か、あった?」  気遣うような柔らかな声色は、屈折した光と混じって真っ直ぐに染み込んでいく。まだ湯気の上ぼるスープに落とされた視線のおかげで、深月のぐるりと迷っていた心は固まった。 「四人で暮らしてると安心するけど、それだけじゃ駄目なんだなって分かったの」  萌の両親のこと、大家にバレたこと、順を追って組み立てられていく話を黙って聞いていた母親は、深月が吐き出した溜息に終わりを悟り、「そう」と一言だけを漏らす。眉間に寄せられた皺は萌を思って作られたもので、彼女の柔らかな心にもう一度詰まった息を吐き出した。 「お母さんとお父さんって、身分違いだって散々後ろ指さされたの」  唐突に語られたのは、初めて聞くものだった。相槌を打った吐息と変わらない晴れやかさに、内容の重さが入ってこない。睫毛を鳴らす深月の様子に、母親は困ったように眉尻を落とす。 「お父さんのお父さん、深月のおじいちゃんね。海外を飛び回る社長さんだったから、貧乏だったお母さんとの結婚を反対するのは当たり前。でもそれが嫌になって飛び出してきて、それ以来地元には帰ってない」  言われてから、おじいちゃんにもおばあちゃんにも会ったことのない事実を思い知った。本当に母親と二人きりで生きてきて、祖父母の存在を気にする余裕なんて幼い深月には欠片もなかったのだろう。下がった眉尻に、きっと母親は祖父母を知らない深月を申し訳なく思っている。気にしないで、と意味を込めて首を左右に振れば、母親は安心したようにほっと息を吐く。 「偉そうなことはなにも言えないけど、否定される辛さだけは分かってあげられるつもりよ」  穏やかな調子を取り戻して落とされた言葉に、深月は動揺が隠せない。父親の記憶はすっかりと消えてしまっていたが、寝物語として何度も聞いていた父親は泣き虫で、神経質で、真面目で。片手で足りてしまうほど小さな深月を抱き締めた父親は泣き過ぎて目元が赤く腫れ上がっていて、それでも幸せそうに、照れくさそうに、笑っていた。誕生日のときにだけ見せてくれるたった一枚の写真を、深月は心から愛していた。  記憶にはない両親の姿。気の強い母親のことだ、小さな喧嘩は日常茶飯事だったに違いない。そんな部分を含めても仲の良かっただろう両親が駆け落ちだったことに驚いて、瞬きを繰り返してしまう。ぱちぱちと睫毛を揺らす娘の様子に苦笑いを残し、母親はとりわけ明るく言葉を溢してみせた。 「お父さんに愛されて、あんたが産まれて、お母さんはずっと幸せよ。だからあんたたちにも、幸せになってほしいの」  まぁ、気にしちゃうとは思うんだけどね。  最後に一度だけ苦く笑って、秋鮭がふんだんに詰まったキッシュにフォークを差し込む。深月は震える心臓を落ち着かせるためにスープを一口飲み込んで、入り込んできて黒胡椒の粒を噛み潰す。舌に突き刺さる独特の辛さに、ぐるぐると蜷局を巻いていた思考は平たく打ち伸ばされていく。 「幸せになるって、もっと簡単だと思ってた」 「簡単なわけないじゃない。誰かを巻き込んで、一緒にそうなるんだから」  呆れにさざめく声の色に、今度は深月が苦笑いを漏らす番だった。幸せにするのでも、幸せにしてもらうのでもない。誰かと一緒に幸せになるのだ、と断言する母親は強くて、それでもって何よりも誠実だ。どこまでも単純であるはずなのに、それは何よりも難しい。  そっと吐き出した溜息に、スープから立ち上ぼる湯気がふらりと揺れる。光りに透ける真っ白い道筋はひたすらに上を目指していて、その明快さに三人の姿が浮かぶ。  願うのは同じであるはずだ。好き合った相手と一緒に生きていたいと願う萌も、当たり前のひとつとして受け入れている海青も、最後に残った愛情を抱き締め続ける櫟も、幸せになりたいと歩む深月も、何ひとつ変わりはしない。好きだと手を伸ばした相手と誰にも否定されることなく、一緒にいたいだけなのだ。  何も違いはないはずなのに、ぬるま湯のようなあの四人だけの一軒家にいると見失ってしまいそうになる。当たり前も非常識も煮詰めて、逃げて、たった四人だけが笑い合える場所は、幸せの具現化ではない。 「ねぇ、ひとつ提案なんだけど」 「え、なに?」  沈んでいた思考を拾い上げたのは母親の突拍子もない一言で、俯き加減になっていた視界が勢いよく開いていく。なんの脈絡もないそれはどこに向かっているのかも分からないもので、深月はただ首を傾げて続く言葉を待つ。  レモンの輪切りを避けて冷たい水を流し込み、もったいぶったような様子の母親は悪戯を仕掛ける子どものように無邪気な笑みを浮かべる。テーブルに戻されたグラスには口紅の痕もなく、結露だけが僅かに姿を現していた。 「結婚式、やってみたら?」  深月の反応を窺うような問いかけの形になってはいたが、なんとなく母親の脳裏には未来の景色が像を結んでいるようだった。場違いとしか思えない提案に、掴んでいたハンバーガーからはずるりとトマトが滑り落ちていく。べちゃり、と白いお皿には瑞々しい赤と、焦げ茶に染まったタレが歪な地図を描いた。  ぽっかりと、開いた口がなかなか塞がらない。なんて言葉を返したらいいのか思考の海に潜り込んで、色んな箱を開けては閉めてを繰り返すけれど、予想もしていなかった未来予想図に深月は何も見つけられなかった。  母親は深月の付き合っている相手が萌であると、同性しか恋愛対象に見られないのだと、きちんと知ってくれている。冗談めかして紹介してよ、なんて茶化されたことは何度もあるが、無理に押し広げようとしてくることは今までになかった。  それなのに、まるで男女の恋愛を思い描くようなこの発言は、一体全体、どういうことだ。混乱ばかりが押し寄せてくる深月をどう見たのか、母親は勝気に頬を緩めるだけで何も続けようとはしない。ずるりと、もう一つ落ちていったトマトに、深月はとうとう掴むことも諦めてお皿に戻してしまった。 「何言ってるの? 出来るわけないでしょ?」 「正式なものじゃなくても、今は遊園地とかでも出来るんでしょ? そういうのも楽しそうじゃない」  にこにこと屈託なく微笑む母親に、深月は頭を抱えたくなる。否定されたくないからこそ知られるのを恐れる自分たちには、注目の的になるようなことは選べない。第一に自分の恋人である萌が猛反対してくるだろう。散々傷付いて、苦しんできた萌に止めを刺すようなことは出来ない。 「形にしてみたら分かるんじゃない? 足踏みするだけじゃどこにも行けないわよ」  母親は何を楽しんでいるのだろうか、揶揄われているのだろうか。投げ込まれた剛速球にこめかみを押さえていると、思いのほか強い言葉が向けられた。鋭い声色は震える心臓を捉えて離さないが、握り潰してくるような怖さはない。  交わった視線には、背中を押されるような慈しみが込められている。守ってくるような横暴さでも、突き放すような淋しさでもない。潔いまでの慈しみは母親が子どもに与える愛情そのものではあったが、それ以上に一人の人間として認めてくれているからこそ明け渡せるものでもあった。  何も考えていないような、こちらの都合などお構いなしだと振りかぶってくるくせに、深月たちは当たり前の一部なのだと応えてくれる。不安も怖さも、淋しさも虚しさも。些細なものでしかないのだと深月の口元は緩やかに持ち上げられた。 「簡単に言ってくれるね」 「簡単にすればいいの。真っ直ぐに、残ったものだけが本当のものじゃない?」  敵わないと、言い捨てるには大きすぎる。掬い取ったトマトは水分も多く含んでいて、でろり、と頭を擡げていたが、瑞々しさは舌を刺激して美味しいことに変わりはない。美味しいものは美味しいのだと、理解はしているはずなのに容易く忘れてしまう。  否定されるのが怖いからと、四人で雁字搦めに固まったところで出口を見失うだけだ。留まり続けられるならそれでも良かったのかもしれないが、深月たちは生きている限り何処かへと進んでいくしかない。行き先の分からない旅路は誰でも不安に溢れ、恐怖に満ちているのだったら、二人仲良く手を繋いで踏み抜いていくしかない。  ぬるま湯の中で幸せを待ち望んでいても、コウノトリが運んできてくれることはないのだと知った。どうなるのかなんて深月にも、もちろん母親にも分かるわけはなかったが、痛みを避けて慰め合いを続けている場合ではない。  採れたてなのだろう。赤く熟れたトマトは弾力が強く、突き立てた犬歯を押し返す。撥ねてくる柔らかな果肉を力づくで噛み砕き、ピンクに焼けた秋鮭をフォークに差してくるりと回す母親に真っ直ぐ視線を預け、すっきりとした微笑みを返した。 *****  母親の買い物に付き合って帰宅すると、リビングでは帰ったばかりらしい海青と櫟がショッピングバッグを片付けていた。キッチンでは萌が何か作っているのか、昼間に嗅いだばかりで鼻の奥に残っていたバターの香りを漂わせている。休みのたびにお菓子を作っていた萌が最近では気まずさに負けてキッチンには長居しないようになっていて、夕陽の賑やかなこの空間は久し振りのものだった。  暖房もつけていないし、窓も開け放っている。それでもこうして四人が揃えば温かで、柔らかで、穏やかに胸を締め付けていく。母親と交わした言葉を伝えてしまうとこの空間が壊れてしまう予感もしていたが、いつまでもぬるま湯に浸されているわけにはいかない。前に進むしか道はないのだと、深月は意識して呼吸を深めていった。 「ねぇ、話があるの」  真っ直ぐに放たれた言葉は緊張で強張っていたが、受け取った三人はいつもとは違う深月の様子に顔を見合わせる。母親と出掛けた日は何を食べただとか、こんな話をしただとか、和やかに楽しそうに話している深月とは趣を変えている。何か大切な話になるのだろうと悟った櫟は素早くキッチンへと向かい、電子ケトルを手に取った。  じゃばじゃばと鉄に流れ込む水音の隙間に、タイマーの音が混じる。オーブンに入れていたものが丁度焼き上がった気配に、夕飯前ではあるが一先ずお茶にすることになった。焼き上がったのは無花果のパウンドケーキで、こんがりと焼き目のついたてっぺんには砕いた胡桃がぱらぱらと振りかけられていた。  ダイニングテーブルにはブラックコーヒーが三つと、渦を巻くカフェオレが一つ。切り分けられたパウンドケーキは表面に無花果が粒を見せていて、ふわりと香るバターが胸に懐かしい。  いつもの席に座った三人を横目に、深月はコートも脱がずに腰を落ち着ける。早鐘を打つ心臓を抑えようとして、これから自分が投下する爆弾を思うとどうにも成功はしなかった。逸る心に冷や汗の滲む手のひらを握り込んで、深く息を吐き出してから三人の視線を正面から受け止めた。 「お母様と、何かあったの?」  心配そうに眉尻を下げる櫟に、深月はただ静かに首を振った。母親とは一瞬言い合いに発展しそうになりはしたが、納得せざるを得ない言葉の強さに背中を押され、微笑みを向け合ったままに別れている。  何だろうかと深月の言葉を待つ三人は、パウンドケーキにもコーヒーにも手を付ける素振りは見せない。逃げを挟ませる様子のない光景に、深月は緊張の走るまま言葉を溢す。 「今すぐってわけじゃない。だけど、四人一緒に結婚式をやりたい」  落ちていった声は、深月自身が思っていたよりもずっとずっと、強張ってしまった。はっきりと残る言葉尻に、強く風が吹き込んできた気がした。固まり凍っていく空気に、寄せられる三対の瞳は驚きと戸惑いに濡れていく。  飾り気のない正直な言葉に、三人はどう受け取るだろうか。提案というよりも願望の形を取っていた言葉はテーブルに落ちて、そのまま誰も拾おうとはしない。正しくは、予想もしていなかった変化球に誰も反応出来なかっただけなのだが、ぽつりと取りこぼされた声に深月は詰めていた息をひっそりと吐き出した。 「それは、対外的に、ってこと?」  残された言葉に早く反応を返したのは、やはり櫟だった。ゆっくりとカップを持ち上げて、熱いコーヒーをゆっくりと啜って、咀嚼するかの如くゆっくりと飲み込んで、それからようやく落とした声色はどこまでも冷静で、どんな感情を含ませているのか分からなかった。 「違う。嘘とか、勝手に勘違いされた相手とか、そういうんじゃなくて。ちゃんとした形で、結婚式をしたいの」  櫟の口にした対外的に、とは、彼と深月が、ということだ。反対に萌の隣を歩くのは海青ということにもなるが、それはあまり想像もしたくない。  深月の恋人は櫟だとか、萌と海青が付き合っているだとか、こちらから嘘を吐いたことはない。勝手に解釈されていくのを放置しただけで、曖昧な関係性は自分たちの中に存在しているわけではない。だけれど、ちゃんとした形だと注釈を添えないと伝わらないほど馴染みがない。同性で結婚式を挙げているのはごく稀で、あまりにも浸透していなかった。  話があると顔を突き合わせてはいたが、何をどう説明していけばいいのか、呼び止めた深月にも分からなかった。どういう式を望んでいるのか具大的な案も出されていない願望は霧散し、消えてしまうかもしれない。それでも言わずにいられなかったのは、当たり前の幸せを同性の恋人を隣に据えたまま、手にしたかったからに他ならない。  尋ねてから黙ってしまった櫟も、パウンドケーキに視線を落としたままの海青も、どう受け取ったのかは分からない。だけれど、驚きに目を見開いて唇を戦慄かせている萌は、きっと困惑よりも憤りに近い感情を手にしたのだけは分かった。 「俺は賛成だな。考えたこともなかったけど、今は同性でもやり方はあるみてぇだし」  落としていた視線を上げた海青は、フォークを片手に深月の言葉を肯定した。感情の読み取れない平らな表情で飄々と言ってのけ、ぱくりと大きな口を開けて無花果を噛み締める。結婚式に夢を見るようなタイプだとは思っていなかったからか、深月はまさか海青から賛成を渡されるとは思っていなかった。  独特の酸味と甘さをじっくりと堪能して、火が通って水分の飛んだ果肉をすり潰して、並々と注がれたコーヒーを啜る。櫟から驚きの視線を向けられているくせに、それを気にする様子は少しもなかった。 「賛成って……。海青は俺とやりたいの?」 「そりゃあ、一応は? タキシード着てる櫟さんも見たいし」  二口目のパウンドケーキを口に含んだまま、海青は素直に首を縦に振る。一途なまでに彼が櫟へと向ける愛情を垣間見ているつもりだったが、そんなことを考えているとは思ってもいなかった。十中八九、深月の提案に触発されただけだろうが、それでも大学時代の海青を知る深月はぱちりと睫毛を鳴らす。あんぐりと丸く開けた口はなかなか引っ込みがつかないのか、櫟は亀裂が入ったかのようにぴきりと固まってしまう。  結婚式を挙げるということは自分たちの中でも、周りに向かっても、分かりやすく形に残る。あらぬ方向へと行き着いてしまう可能性も高かったが、海青の中でもやってみる価値はあるのだと判断された。 「楽なものじゃないよ。面倒なことばかりが山積みで、俺たちは書類上の契約にもならない」  結婚と、離婚と。両方を経験している櫟の眉間には深い皺が寄る。大変だったときのことを思い出しているのだろうが、経験していない深月にとっても面倒事ばかりに溢れていることなんて考えなくても分かっていた。  深月は櫟の深い事情を知らない。二つを経験して、自分の芯は変えられなかった、と淋しそうに微笑む櫟を知っているだけ。彼が何を思って結婚しようとして、何が駄目で離婚に至ったのか、聞くつもりもなかった。  ただの自己満足にしかならないだろう。結婚式を挙げたところで残るのは記念写真と、確かな疲労だけ。そんなことは分かりきった上で、やりたいと願うのだ。 「なんで今更、そんなこと言うの?」  掠れた声は、睫毛を震わせる萌から吐き出されたものだった。振り絞られた声色は硬くて、冷たくて、向けられた深月の方が泣きたい気持ちになる。知られて否定されることを恐れている萌が反対することなんて想像に難くはなかったが、まるで傷付けられたとばかりに悲痛さを漂わせた声は、深月の震える心臓に突き刺さる。 「タキシードが見たいなら記念写真でいいじゃん。なんでそんな、わざわざ傷つけられに行こうとするの?」  萌の言いたいことも分かる。記念写真だけでも形には残るし、それだけでも満足出来る予感はある。だけれどそれじゃあ、このぬるま湯から抜け出すことも、前に向かって進んでいくことも出来ないのだ。 「私は絶対に嫌だ。絶対にやらない」  続けようとして、だけれどどんな言葉を重ねれば萌に届くのかが分からない。急いていくのは気持ちだけで出てこない言葉に、萌はばさりと切り捨てて立ち上がる。感情のままに立ち上がった萌は椅子が倒れていくことも、テーブルに置かれたおやつに手を付けていないことも忘れて、震える拳を握り締めた。 「萌、お願い。もっとちゃんと考えて。お兄さんやお姉さんだけでも呼んでさ、萌のウエディングドレス姿を見てもらおうよ」  打ち明けてくれた寝室で、兄姉も父親と同じだったと告げる萌は痛みを耐えているかのようで、彼らの反応が当たり前なのだと平然と嘯く視線に胸が抉られていくようだった。  互いに家族とのことを詳しく話したことはない。やるせなさもどうしようのなさも抱えて語れるほど、生まれ生きてきた場所を憎んでいるわけではないのだ。だからみんなの昔がどうだったのかなんて知る由もないが、それでも、大好きだったのだろう兄姉に萌の幸せに笑う姿を見てほしかった。  深月はただ、幸せになってほしいと、笑っていてほしいと願っただけだ。けれど、お願い、と切実さを込めて溢した声色に萌は傷付いたような、拗ねるような、はっきりと区別の取れない場所で表情を固まらせた。 「ちゃんと、って。これでも、ちゃんと、考えてるよ」  しまった、と自分の落とした失言に気付いたときにはもう遅い。深月が無意識に踏み荒らした場所は、恋人である彼女でさえ踏み込んではいけない聖域だった。 「深月ちゃんはお母さんと仲良しだもんね、そりゃあ晴れ姿だもん、見せたいよね。分かるよ、私もきっと、お母さんと仲良しだったらやりたいって思うよ。でも、だけどさぁ……。深月ちゃんの自己満足に、私を巻き込まないで……!」  引き絞られた声が、槍となって深月の心臓に深々と突き刺さる。言い捨てた萌は俯いてしまって、パーマの強くあてられた髪の毛のせいで下からでも萌がどんな顔をしているのか、泣いているのか、深月からは何も分からない。だけれど、先走った心は不躾さを赤裸々に、萌を攻撃してしまったのだと自覚した。萌の肩も、握り締められた拳も、濁流のように押し寄せる感情に抗ってぶるぶると震えている。  謝ろうとして、だけれど謝るのは違うとすぐに口を噤んでしまう。二の句を続けられなくなった深月に変わって言葉を溢したのは、意外にも賛成の姿勢を崩さない海青だった。遊び惚けていた過去の海青ならば相手側を宥めつつもイベントには気分の赴くときだけ、と一貫した対応に固めていたのに、見上げる先にある瞳はどこか輝いている。 「櫟さんも?」 「俺も、賛成はしない。タキシードなら昔に撮ったものがあるから、あとで見せてあげるよ」  気乗りしていない最年長の櫟は、萌に不安げな視線を向けつつも静かに首を振った。準備で大変だった、と過ぎ去りし日に思いを馳せているようで、深月や海青にはその苦みの多さをひた隠しにしている。散りばめられていく後悔の念は、その当時について何も聞いていない二人にも察することは出来た。 「例え法的な拘束力がなかったとしても、結婚って形を取ると簡単に逃げられなくなる。二人が選びたがっている未来は、悪手なんだよ」  穏やかで、柔らかで、木漏れ日のような温かさを含んでいるくせして、言い知れない淋しさと苦しさがあった。すっかりと表情を失くしてしまった櫟に、深月はうすら寒い感情を抱く。  逃げられなくなる、と零したそのときから、海青の眉間には皺は深く刻まれた。彫刻刀で削られたかのような深さは、それだけ海青の感情が動いたことと同義だ。櫟はそれに気付いておきながら、訂正するつもりも、慰めてあげるつもりもない。 「まだそんなこと言ってんのかよ。逃げって? 悪手って? そんなの関係ないくらい好きで、だから一緒にいるんじゃねぇのかよ」 「好きで、大切だからこそ、だよ。恋い慕う誰かを、崖っぷちに追い詰めようだなんて思わないだろう?」  飾り気のない言葉は、深月と海青の真ん中にしっかりと滲んでいく。好きだからこそ大切に、丁寧にしたいのだ。そう櫟は言いたいのだろう。  だけれど、深月や海青から言わせてみればそれはただ足踏みをしているだけで、どこにも行けはしないのだ。こうであればいい、と空想の中に逃げ込んでいるかのような萌と櫟の意見に、深月と海青の意見が交差することはない。あまりにもベクトルが違い過ぎる。  ふぅ、と大袈裟な溜息を吐き捨てて、櫟はパウンドケーキにフォークを差すこともなく立ち上がる。小さな身体を震わせ、現実からも未来からも逃げようと足掻く萌の背中を支え、櫟は真っ直ぐに二人を見下ろした。 「未来は、明るいだけじゃないんだよ」  付け入る隙もなく言い捨て、瞳を細める櫟に二人はただ背筋を正すことしか出来なかった。普段は窘めるような、一歩引いた位置から見守ってくれる櫟がこうして、自分たちに敵意を見せている姿は初めてだ。慣れない視線に気圧されて、知らず冷や汗がこめかみを伝った。 「櫟さん!萌!」 「ごめんだけど、下の部屋使うから」  呼び掛ける声にも、櫟の冷えた声色が返ってくるだけで、二人は連れ立ってダイニングから出て行ってしまう。がちゃり、と響いた音に、深月は何も言葉が続かない。 「あの人、未だに俺と別れるつもりでいやがる」  呆然と背中を見送って、遮られた扉から視線を逸らすことが出来なかった。二つ返事で賛成してくれるなんて思っていたわけではないが、真っ向から浴びせられた冷水に手のひらは痺れを切らす。  ぐっと噛み締めた奥歯が固まってしまう少し前に、ぽつりと零れた囁きは海青の音をしていた。口惜しさばかりを含ませた言葉に弾かれた頭は隣を見やったが、彼も深月と同じように扉を睨んだまま動こうとはしない。  海青の一途な愛情を知って、櫟も確かに海青のことを愛していて。それでも離れてしまう未来に心を割いている櫟はどこまでも淋しさばかりを抱えてしまった人だ。つられて眉間に皺を寄せてしまった深月に、海青は視線を向けないままに言い捨てる。 「少しずつ説得してくしかねぇな」  海青の吐き出した溜息は重く、澱みきってしまっている。言い合えたなら出口も見つかるだろうが、二人は頑ななまでに反対で、それを解きほぐしていくのは難しい。諦めてしまいたくなる感情に、海青の言葉は希望のように映る。  言ってすぐにどうにかなるなんて、深月も思ってなどいない。朝の自分だったらきっと、櫟や萌と同じように嫌だと跳ね除けていたはずだ。だけれど今は、母親の見据えた未来を聞いていた。否定されることの方が多かったけれど、ちゃんと自分たちの本当を見て、背中を押してくれる誰かもいる。大家の老夫婦もきっと受け止めて、応援してくれるはずだ。  どうなるかなんて、深月にも、海青にも分からない。曲げられないのは自分たちも同じだと、二人は同時にコーヒーを啜った。  余った二つのカップからは、湯気がもう消えている。少しずつ冷たくなっていく焦げた香りに、深月はこれで最後だ、と長い溜息を吐き出した。
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