嘘つきな彼女の話

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 一週間後の夜。夕食後入浴を済ませ、大学の課題の本を読んでいたときだった。アパートのチャイムが鳴った。遅い時間のことに驚きと恐怖を感じつつ、インターフォンの受話器をとった。そしてその瞬間、直感した。玄関の前に立っている人が誰なのかはすぐにわかった。大きく心臓が跳ねた。 『開けて』  声を聞いて確信する。間違いなく愛佳だ。私は少しだけ待ってもらって部屋着から少しマシな格好へと着替え始める。 「今開ける」 ドアを開けると、泥酔した愛佳が立っていた。 「とりあえず上がって」 「うん」 「大丈夫?」 「大丈夫」  彼女はずかずかと部屋に上がりこむと、コートを脱ぎ棄て、リビングの炬燵に入った。 「ビールある?」 「ないよ」 「じゃあ、買ってきて。ビールでも焼酎でもなんでもいいから」  私は愛佳のコートをハンガーにかけ、彼女の前に麦茶を置いた。 「買ってくる」  財布だけを持ち、コンビニへ向かった。  こうなることを、きっと私はどこかで、いや内心ではずっと、望んでいたのだ。喫茶店で愛佳に渡した紙には、男の住所と妻子の名前、それから私のアパートの住所を記していた。SNSには連絡がなく、もう愛佳とはあれっきりかと思っていた。けれども、そうではなかった。  そう思うとなんだか愉快になってきた。足取りは軽く、スキップでもしたい気分だった。コンビニでは手持ちのお金を全て使い切る勢いで、アルコールとつまみを買った。  部屋に戻ると、愛佳は炬燵の上で伏せっていた。 「風邪ひくよ」  声をかけると愛佳は顔を上げた。普段よりもやつれているように見えた。 「酒は?」 「買ってきた」  缶ビールを渡すと愛佳は思い切りよくプルトップを倒した。 「あんたは飲まないの?」 「アルコールは苦手」 「ふうん」  いつの間にか呼ばれ方が「あんた」になっている。他人からそんな風に呼ばれるのははじめてだった。そんなことにまで浮かれていた。 「愛佳、どうしたの?」  思い切って下の名前で呼んだ。愛佳はそのことには気づいたのだろうか。呼び名には構わず、私の質問に短く答えた。 「別れた」  それは私が望んだ結末だった。 「そう」  自らの頬が緩むのを感じた。愛佳は私の表情に目敏く気づいて、悪態をついた。 「最低」 「良かったじゃん」  本心からの言葉に、しかし、愛佳は激昂した。そして冒頭に戻る。  そうか、愛佳はあの男のことを愛していたのか。  今更ながらにそんなことを思った。不思議だった。 「そんなに泣かなくてもいいじゃん」  思わず、言った。 「あんたに何がわかるっていうの?」  愛佳に睨まれた。 「分んないよ」 「じゃあ何でそんなこと言うの」  なんでだろう。ふと、思った。最初はただ、愛佳のことが知りたかった。それから、悪い男なんかと別れて、幸せになってほしいと思った。ただそれだけのはずだった。 「泣き止んでほしいから」  なんとか彼女に伝わりそうな言葉を選んだ。 「は? うるさいって?」 「そうじゃない」 「じゃあ、別に泣こうが喚こうが勝手でしょ」 「そうだけど、そうじゃない」  自分でも何を言っているのか分からなくなってきた。 「私は、ただ、愛佳に……」 「もういい。黙って」 「うん、ごめん。ごめんね」  自分でも分からないことが、他人に伝わるわけがない。絶望にも似た気持ちで、何とか言葉を繋ぐが、それも拒否されてしまった。 愛佳は黙りこんでしまった。私も言葉を失った。  しかしそれでも、私の内心はあくまで穏やかで幸せだった。そう、幸せだった。  もう少しだけ、もう少しだけ、この時間が続いてほしい。  恨まれたっていい。だから、もう少しだけ、愛佳と同じ空間にいたい。ただ、それだけだった。
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