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「あんたなんて大嫌い」
愛佳は酒で赤い目を見開いて私を罵った。罵られているにも関わらず、私のポンコツな頭は、彼女の整った顔立ちに惚けていた。
――美人は酔っ払って悪態をついても綺麗なんだな。
午前二時十五分。辺りは静まりかえっている。狭いアパートの部屋にはアルコールの匂いがこもり、一滴も飲んでいない私も酒に酔ったような気分になっている。もしかしたらこの状況――深夜に愛佳と二人きり――に酔っているのかもしれない。
「何見てるのよ」
彼女は私の視線に気がつくと、整った顔を歪めた。歪んだ表情すらも愛おしく思えるのだから私は病気だ。彼女と目が合う。私は今、どんな表情をしているのだろう。
彼女はふいにテーブルの上に置いてあったコップを持ち立ち上がった。思わず見上げた私の顔に、ウーロン茶が浴びせられる。冷たさに息を飲む。
「あんたって、最低」
前髪が額に張り付いている。服も胸のあたりが大きく濡れている。
きっと今の自分はひどくみっともない顔をしているだろう。元々の残念な顔立ちに、剥げたメイク、その上ウーロン茶でびしょ濡れ。呆けた顔で、彼女を見上げることしかできない。でも、この時がもう少しだけ続いて欲しい。どんなに罵られても、悪態をつかれても、八つ当たりされても構わない。
朝が来れば、愛佳が私を見てくれることなんてなくなるだろう。だから、もう少しだけ、もう少しだけこの時間が続けばいい。
でも、そんな時間も長く続くわけがない。彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちる。そのあまりの貴さに、私は喉を大きく鳴らして唾を飲み込んだ。喉がカラカラだった。
「座ったら?」
ようやく絞り出した言葉はそんな言葉だった。彼女は大人しく私の言葉に従い腰を下ろすと、手に持っていたグラスにペットボトルの焼酎を注ぎ、一気にあおった。私は台所から、新しいグラスを出しお茶を注いで、彼女の前に置いた。
「ほんと、あんたって最低」
愛佳は先ほどと同じ言葉を繰り返した。しかし口調には先ほどまでの勢いはない。だから、決死の思いで、彼女に問うた。
「そんなに悲しい?」
愛佳は目を伏せた。長いまつ毛が震えている。
「……わからない」
か細い声が、六畳間に響いて消えた。その一言をきっかけに彼女は嗚咽を抑えることもなく、子供のように泣きじゃくった。
これは私が望んだ結末だった。でも、愛佳を悲しませるのは本意ではない。言い訳に聞こえるだろうか。私は本気で愛佳を救うつもりだった。
すべてのはじまりは、私と愛佳が同じ小学校に通っていたころまで遡る。
その頃の愛佳は、可愛いとは言い難い児童だった。歳の割に身体が大きく太っており、運動神経が悪く鈍臭かった。どことなくだらしがなく、不潔な印象だった。そして何より、幼い愛佳は病的なほど嘘つきだった。
ゲームが話題になるとどんなタイトルでも持っていると言い、地名が出ると世界中のどこでも行ったことあると言う。分からないことも分かると言い張り、自分は何でも誰よりも知っていると主張した。彼女によるとテストはすべて満点だし、出来ない課題はない。おまけに両親は世界一優しくて、自分は世界中の誰よりも愛されている。
「誰からも愛されるから愛佳なんて名前つけて欲しくなかった」
愛佳はクラスメイトの誰彼構わず言い回っていた。
子どもは残酷だ。愛佳の容姿と言動は子どもたちの間で、いつもイジリの対象だった。嘘がバレる度に、嘘つきとクラス中から罵られ、ときには小突かれもしていたようだ。その度に愛佳は大声で泣き喚くか、職員室に駆け込んだ。そんなところも愛佳の存在をクラスから浮かせる要因の一つだったのだと思う。
私たちの通った小学校は二年に一度クラス替えがあり、三年生になったときに、私と愛佳は同じグラスになった。その頃には愛佳は完全に「変わった子」扱いされており、特定の友人はいなかったように思う。しかし明確なイジメのターゲットというわけでもなく、彼女はクラスの周縁部に浮いていたクラス替えの年には大きな事件は起こらなかった。
年が明けて四年生。幼い自我が目覚め、個の確立が進む時期。子どもたちの間では第一次恋愛ブームが巻き起こっていた。
そんななか、ある男子がある女子に告白したという話が流れた。
告白された女子は、その返事を一週間待ってほしいと答えた。彼女がどう答えるか、クラス中が後期の目を向けていた。
そんななか、女子たちの輪の中で、愛佳は爆弾発言を投下した。
「私、修平君とキスしたことあるよ。ううん、キスだけじゃなくて告白もされたし、デートで手もつないだし、結婚しようって言われたよ。翔子ちゃんより、愛佳の方が好きだって言われたし」
愛佳にしてみれば、いつもの何気ない嘘だったのだろう。しかしクラスメイト達は「いつものただの嘘」とはみなさなかった。彼女の嘘を黙殺せずに、おもちゃにした。彼女の嘘はすぐに男子たちの間にも広がった。男子たちは「修平君」を囃し立て、女子たちは「翔子ちゃん」を慰めた。「翔子ちゃん」はただただ呆然としていた。普段は大人しく声を荒げることのない「修平君」も真っ赤になってキレた。机を蹴り倒し、愛佳を罵った。机が倒された大きな音をきっかけに、教室の空気が変わった。男子も女子も一斉に、愛佳への非難を開始した。
声がどんどん大きくなる。一対多数のなかで、しかし、愛佳は自らの嘘を撤回しなかった。あくまで告白された、キスされたと言い張った。
「いい加減にしろよ」
「嘘つき」
「デブなくせに」
「最低」
投げかけられる言葉はどんどん短く、凶暴になり、収拾がつかなくなった。結局、騒ぎを聞きつけて駆け付けた担任の先生によって、愛佳は教室から連れ出され、それで場はなんとか収まった。
私はその間どうしていたか。黙って、自分の上履きの靴先を見つめていた。なぜならば私は、告白事件の当事者である「翔子ちゃん」だったから。
その後のことはあまり覚えていない。
結局告白の返事をすることはなかったし、翔平君ともそのまま疎遠になってしまった。十歳の恋愛なんて、恋愛でもなんでもない。恋に恋する段階でもない、幼い戯れに過ぎなかった。今では翔平君の顔も覚えていない。
それでもその出来事は、私の心に強烈なインパクトを残した。大勢に非難されながらも、自らの嘘を主張し続ける愛佳の甲高い声は、いつまでもいつまでも私の耳の奥で反響していた。
その年の冬休みに、愛佳は隣の市の小学校へと転校していった。噂によると、愛佳が親に頼み込み、転校させてもらったのだという。真偽のほどは不明だ。彼女の実像は幼い嘘にまみれている。しかしどのみち、私と愛佳の関係はそれで終わりのはずだった。
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