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経済学部の同級生にものすごく綺麗な人がいる、そんな噂を聞いたのは五月の連休が明けてすぐのことだった。
私は地元を出て、東京の大学に進学していた。初めての上京、初めての一人暮らし。連日の新歓コンパやようやく始まった講義に、目まぐるしく日常が過ぎていっていた。そんななかで聞いた噂だ。最初は、東京なのだから綺麗な人がいるのも当たり前ではないか、という素朴な感想だった。それでも数人の男子たちが盛り上がっていたものだから、興味を持った。
おしゃれで垢ぬけていて、常に友人に囲まれている女の子がいる。学部共通の基礎講座に出席している。水曜二限目の大講義室。
私もその講義は受講していた。しかし数百人規模の生徒が受講する講義だ。今までそんな目の引く学生がいたことには気づいていなかった。
噂を聞いた次の水曜日、同じく男子たちの話に興味を持ったという友人と「綺麗な子」捜しをした。少し早く大講義室に行き、出入り口の一番近くに陣取って、やってくる学生たちの姿を確認する。
そこで愛佳の姿を見た。
「確かに綺麗だけど、想像の範囲内かな」
辛口な友人の隣で、私は愛佳が離せなかった。愛佳の姿は大きく変わっていた。太ってもいなかったし、服装は洗練されていた。苗字まで変わっていた。おまけに友人たちに囲まれていた。それでも何故か、彼女が愛佳だと一目で分かった。そして今までに感じたことのない衝動を、心の奥底に感じていた。
その瞬間からすべてが変わった。熱に浮かされたかのように愛佳のことを見つめ続けた。彼女のことは何でも知りたかった。十歳から十八歳までの間に何があったのか。嘘をつき続けた子どもが、どんな大人になろうとしているのか。そもそも彼女は今も嘘を吐き続けているのか。
愛佳は私のことには気づいてはいなかった。どうにかして私の存在を知らしめたかった。だけれどもなかなかきっかけが見つからなかった。
季節が夏に変わった。
きっかけは唐突に訪れた。
大講義室横のトイレで手を洗っていると、すぐ隣の洗面台に愛佳がやってきたのだった。思わぬ幸運に、言葉を失う。もちろん愛佳はそんな私のことなどお構いなく、手を洗い、少し髪型を直すとすぐにトイレから出ていこうと踵を返した。
「松永さん」
思わず口から出たのは、愛佳の旧姓だった。彼女は足を止め、驚いた顔で振り向いた。
「え?」
「松永愛佳さん、だよね」
愛佳の目を見た。彼女は背が高く、少し見上げる形になった。戸惑ったような瞳にぶつかる。
「覚えてない、よね。朝日第二小学校四年二組で一緒だった浦原祥子」
どこからこんな積極性が出てきたのだろう。一気に言葉を重ねた。
「急に転校しちゃったから驚いたよ。まさか大学で再会するとはね。って、覚えてないかな?」
「浦原さん……」
愛佳は軽く瞑り、そして唐突に見開いた。その瞳は驚きと、そしてなぜか恐怖に満ちているように見えた。
「浦原さん?」
「覚えてる?」
私の問い掛けに彼女は困ったように目を反らした。と、そのとき講義が始まるチャイムがなった。
「ごめんなさい、行かないと」
愛佳は軽く頭を下げると、私の問いには答えず、トイレから出て行ってしまった。
「ちょっと、松永さん」
声は届かなかった。もしくは、無視された。私は一人、トイレに取り残された。
その後も愛佳が私に話しかけてくることはなかった。しかし私の熱は冷めるどころか、ますます燃え上がった。愛佳の友人と友だちになるためだけに興味のないサークルに入り、彼女のバイト先の居酒屋に顔を出し、出来るだけ同じ空気を吸おうと彼女の出る講義を調べては部外生の聴講制度を行使して潜り込んだ。彼女と同じアパートに引っ越すべく、バイトを始め貯蓄口座を開くこともした。
季節は夏から秋、やがて冬へと変わった。私たちの関係は変わらなかった。私が一方的に彼女を見つめ続けるだけの関係ともいえない関係。しかし、衝撃的な事件が起こっていた。
愛佳に彼氏が出来たのである。
素直におめでとうと思えれば良かった。残念ながら思えなかったのは、愛佳の彼氏が二十歳も歳上だったからだ。
バイト先で出会ったらしい、と愛佳の友人から聞いた。どんな人かと尋ねたが、誰もよく知らないという。愛佳は彼氏についてあまり話さないのだそうだ。それはそれで意外であったが、まず私の中に起こったことは、愛佳の彼氏について確かめねばならないという義務感だった。
私は愛佳のデートを尾行した。尾行するのは簡単だった。普通の人間は自分が尾行されているだなんて考えもしない。都会の人混みのなかで、無警戒な相手を尾行するのに難しいことなんて何もない。
その日二人は、駅中の水族館へ行き、夕食を食べてからホテルへ行った。私は二軒隣のネットカフェで時間を潰し、二人が出てくるのを待った。朝まで粘るつもりだったが、二人は三時間も経たないうちに出てくると、近くの駅で解散した。私は男を追った。
そして男の住むマンションを突き止めた。マンションはファミリー世帯向けのもので、男が消えたドアの向こうからは子どもの声が聞こえていた。
愛佳はこのことを知っているのだろうか。なんとしても愛佳に確かめねばならない。
しかし自分でも奇妙に思うが、赤の他人のストーカーをすることは出来ても、愛佳に直接話しかけることは出来なかった。大学で愛佳とすれ違う機会は意図的に増やしていたが、愛佳と話すことが出来たのはあのトイレでの一回だけだった。
だけど、ある日の講義終わりに、思い切って愛佳を呼び止めた。
「松永さん、ちょっと二人で話したいんだけど」
愛佳の目が冷たく私を貫いた。それにもめげずに、私はなんとか愛佳を友人の輪から引き離し、キャンパスの近くの喫茶店に誘った。
「で、何?」
席に着くなり愛佳は言い放った。私はとりあえずコーヒーを二人分頼んだ。
「ちょっと変なこと聞くけどいい?」
「ダメって言っても聞かされるんでしょう?」
「うん、まあ、そうなんだけど……」
「小学生の頃のこと?」
そう聞かれてはっとした。そうだ。私と愛佳の関係。それは小学校低学年時代の同級生、それ以上のものではなかった。
「ううん、違う!」
だから、私が否定すると、愛佳は戸惑ったように僅かに眉を寄せた。
「えっ……そうなの?」
「うん」
「私、てっきり……」
彼女の目が改めて私を観察するのを感じた。私はどんな顔をすればよいのか分からなくなり、彼女の瞳を正面から見つめてしまった。
一瞬だけ、目が合った。
「じゃあ松永さんは、覚えてるの?」
私は問うた。
「正直、あの小学校のことはあまり覚えていない。四年で引っ越したし」
「うん。知ってる」
「浦原、さん? 貴女のことも、正直、あまり。ごめんなさい」
その一言で、なぜかほっとした。
「私は覚えてる」
「私、嫌な人間だったでしょ? 私、子どもの頃、全然友達とかいなかった」
「松永さんは嘘つきだった」
「うん。大噓つきだった」
彼女はあっさり肯定した。
「自覚、あったんだ」
「昔はあったかどうか分からないけど。今はある、かな。でも、正直、あの頃のことは思い出したくない」
私は愛佳に、当時の彼女にされたことを詳しく語って聞かせたくなった。彼女はどんな顔をするだろうか。しかし口を開く前に、ウェイターがやってきて、私たち二人の前にコーヒーを置いたので、過去の追及はお預けにした。熱いコーヒーを一口啜った。熱と苦みが口腔内に広がる。愛佳はコーヒーカップを手に取ったものの口は付けず、黒い液面を見つめながら、怒ったような、困ったような、泣き出しそうな顔をしていた。しばらくの後、彼女はカップから手を離し、顔をあげた。
「で、小学校の頃の話ではないなら、何の用?」
その顔は、毅然とした冷たい表情が戻ってきていた。その変化の大きさに舌を巻きながら、コーヒーカップをソーサーに戻した。淡々とした口調を意識しながら、言った。
「谷川晴敏さんとお付き合いしているよね?」
「ええ」
頷く彼女の目は一層冷たくなった。怯みそうになりながらも、私は言葉のナイフを突きつける。
「彼、既婚者だよ」
愛佳は表情を変えなかった。ナイフは彼女に刺さらずに、地面に落ちた。
「もしかして、知ってた?」
「知らなかった」
「本当に?」
「どうして嘘だと思うの? 私のこと、まだ嘘つきだと思ってる?」
いつの間にか、ナイフを突きつけられていたのは私だった。
「松永さん、全然、動揺しないから」
「動揺してるよ」
「そうなの?」
「表に出さないだけ」
「彼に、嘘つかれてたの?」
「そうみたい」
「どうするの?」
問うと、彼女は突然立ち上がった。
「大事なことを教えてくれてありがとう。感謝してる。でも、貴女にこれからのことを教える義理はない」
言い捨てると、彼女は財布から乱暴に千円札を出して、机に叩きつけた。
「帰るの? 待ってよ」
慌てて、一枚の紙きれを鞄から出すと、愛佳に押し付けた。彼女はその紙切れを一瞥すると、軽蔑しきったような眼差しで私を見て、無言のまま店を出た。
また置いて行かれた。
机の上に残された千円札を手に取った。何の変哲もないただの千円札。出来る限り皺を伸ばすと、ちょうど鞄の中に持っていた単行本の表紙の下に挟んだ。電子マネーで会計を済まし、店を出る。
店の外には冬の高い空が広がっていた。
愛佳のことを思った。ふと宗教を持っていればよかったのにと思った。そうすれば、彼女の幸せを祈ることが出来るのに。
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