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Kは襖の間から、信じられないような思いでそれを見ていた。
一寸に満たない隙間から、敬愛する先生が自慰をしている姿が覗ける。
先生はうつ伏せるようにして背を丸め、黒つるばみの着流しの裾を乱して、長い足の先に履いた足袋でもって畳を蹴るようにピンと反らしていた。
つやつやした黒髪が乱れるにも構わずに畳に擦りつけ、まるで尻を叩いて欲しい猫のように腰を高く持ち上げている。
「ぁあ……っ、」
ごくごく控えめな、けれどしっかり熱を孕んだ切なげな吐息だ。
先生がいわゆる普通の男としての自慰をしているのなら、Kとてこれほど動揺はしなかっただろう。けれど先生の指は、指は……、いつも白墨を指に捉え、きれいな文字を黒板に記す先生の指は、深々と脚の間に埋め込まれていた。抜き差しのたびにじゅく、じゅくっ、とぬめった音がした。
先生は「くすん」とすすり泣く。まるで、いとけない子供が迷子になって泣き出す寸前のような風情だった。
くな、と腰が動くたびに、耳にかけていた髪が涙で濡れた頬に落ちて貼りついていく。
背筋をしゃんと伸ばした普段の先生からは想像もつかない姿だった。
「……んっ、んんっ、ぅん、」
くすん、くすん。
啜り泣きの合間に開かれた唇から、今にも知らない誰の名前が昇ってきそうに、ふるふるとわななく。
「あぁ、……あ、あ、……すみません、……ゆるして、ゆるし、て……、」
寂しさを埋め合わせるために自分を慰めるよりない。
こんなにも悲しい自慰があるのか。Kの心がきりきりと締め付けられる。今すぐにでも先生とKとを分断する襖を開け放って、先生をお慰めしたいと全身の血が滾っている。
けれど、襖に掛けた指の一本も動かない。先生の見てはならない姿を見てしまった。そういう恐れが勝ってしまった。
しかしKの身体は淫らな禁忌に触れ、反応を兆している。痛いくらいに勃起して洋袴の前が張り詰めていた。全身が小刻みに震え、うるさいほどに心臓が高鳴っている。
ここに至ってようやく、Kは自分の想いを自覚した。自分の行動のひとつひとつが線を結んだ気がした。
そしてそれは勘違いなどではない。
ほんの一尺一寸の先に、自らが受け持つ生徒が覗き見ているとも知らない先生は、誰にとも知れない謝罪を繰り返し、青々とした畳に爪を立てて身悶えている。そのくせ後腔を犯しているであろう指は、むしろ速さを増していく。
誰かに鷲掴みにされることを前提に作られたような、ぎゅっと締まった柳腰が左右に揺れる。まるでそこに突き立てられたものを、想像の上で噛み締めているかのように。
床から冷気が這いあがってくるかのような、二月のことだった。
先生のご自宅の垣根には、白地に血を垂らしたような椿が咲き乱れていた。先日の嵐のせいか、いくらかの椿が雪上に落ちていた。
※
先生は旧制高校で数学と歴史を教えていて、歳が近いのもあってか生徒に慕われていた。
土曜の昼になると先生のご自宅に酒を持ち寄って、湯飲みに注いだそれを片手に議論を交わしたり、珍しい蔵書を読ませてもらったりと、学生の多くが世話になった。
Kもそのうちのひとりだった。
けれど先生は、あまり自分の身の上を語らない人でもあった。
他の教師に先生の過去について探りを入れても、ここに来る前は軍属であったことしか分からなかった。
女は噂好きだと腐する者もいるが、男も大して変わらない。すぐに「先生の瓶底のような眼鏡は戦場で閃光弾を食らったからだ」と見てきたようなことを言う輩が出たと思えば、またある者は「先生は連隊で稚児をしていたそうだ」と吹聴した。
前者はともかく、後者の噂は男所帯にありがちな醜聞だ。
けれど、先生が眼鏡を拭くときにだけ現れる素顔を見れば、誰もが強くは否定しきれないでいた。
軍に所属していたにしては、先生は確かに粗野なところがなかったせいだ。
それどころか、白絖の肌に黒髪のひと房が掛かるだけで、むらっとするような色香が匂う瞬間があった。色街の女のように周囲に振りまく色気とは違う。始終幕無しにまき散らされていては、色気も日常のうちになり果ててしまう。
先生はそうではなかった。
普段はきっちりと蓋がされた肉体から一瞬だけ漏れる、冷たく翳る悲しみを抱いた匂い。
男に「放っておけない」「自分ならこの人を幸せにできるのではないか」と思わせてしまう色香だ。
だが、Kは見ないふりをした。
先生に対する感情は敬愛に他ならない。女を知らないからそんな妙な気持ちになるのだ、と自らに言い聞かせた。
そしてそれを塗り固めるように、真面目な学生として先生に接した。
授業中はもとより、休憩時間も、日曜日も、先生のもとへ押しかけた。仔犬の顔をして先生に撫でられることを選んだ。そうしていなければ、良くないことに気づいてしまいそうだったのだ。
その一方で、先生が廊下で自分以外の生徒と受け答えしているのを見ると、割って入らなくては我慢ができなかった。先生が学校の窓から身を乗り出して校庭を眺めていると、もしや身投げでもするのではないかと、慌てて声を掛けずにはいられなかった。
──そうさせるだけの影のある人だった。
目を離した隙にふいっ、といなくなってしまうような、死に際を他人に見せないような、そういう人だったのだ。
軍属であった過去がそうさせているのか、単純に生まれ持ったものなのか、それは判別がつかない。
けれど、俯いた瞬間の、がっくりと下がった首に浮き上がった脛骨の出っ張りを見つけてしまうと、Kの心は騒いだ。いつもどことなく微笑んでいるように持ち上げられている口角がわずかに下がったときですら、まるで空が落ちてきたかのような絶望的な気持ちにさせられた。
そんな日を卒業まで何度も繰り返して繰り返して、いずれ、先生のことは気の迷いだったと自己完結するとか、世帯を持って子供が酒を飲める年頃になったとき「俺もあの頃は莫迦だった」などと笑い話にする日がくるものと高を括っていたのだ。
……それなのに。
※
Kは下宿先に逃げ込むなり、ハァハァと荒い息を吐いた。走ってきたからではない。まだ先生の家で見た光景が脳にこびり付いて離れないせいだ。
いやらしかった。
いやらしくて、まるで女のように高い声を上げていた。
蹲っていたKは、はっ、と顔を上げた。
誰が先生をあのようにせしめ仕立てたのだろう。
『すみませんゆるして』と謝らせ、そのくせ、先生を寂しがらせている相手。Kの去り際に聞いた、『でも、もう我慢できません』とすすり泣かせる相手。
先生にお返しするつもりだった本が握りしめた拳の中でひしゃげる。あんな場面に遭遇して、どこかに落とさなかったのか奇跡のようだ。
「先生、せんせい、……あなたのことが、……せんせい、」
声に出すと、ぐぅっ、と男根が上向いて、Kはそれを性急に扱き上げる。
くらくら眩暈がして、何度も何度もいやらしく脚の間を弄っては耽る先生の姿が思い起こされた。
精通を迎えたときと同じ量の興奮だった。
「せんせ、ぇ、……せんせっ、……」
あまりに敏感になった男根を扱きあげ、一滴残らず吐き出す。かの人を力任せに征服し、割り開いた間にぶちまけてやれたならと思うと、早くも下腹部に血が滾ってくる。
『もう、我慢、できない……っ』
『してっ、……してください、……してぇ……っ!』
啜り泣きの合間の、引き絞るようなうわ言が、わんわんとKの鼓膜を揺らし続けた。
優しくなんてしてやれない。優しく慰めて差し上げたいのに、犯し抜きたくなる加虐心を煽る、細く弱々しい声色だった。
陽に焼けて色を変えた畳の上にぽたぽたと血が滴る。
「…………ア、」
鼻血だった。
鼻血を垂らすほど先生に興奮した事実を、いよいよKは受け止めなくてはならなかった。
※
「何か、君の気に障ることをしてしまいましたか……?」
放課後、翌日の授業の準備を手伝う合間、先生が戸惑いがちにこちらを見つめてきたので、Kは大いに動転をした。
狭いわりに壁の両側を本棚が占拠し、机の真正面にある窓から橙色の夕日が差し込む準備室でのことだった。
ティンダル現象というのだっただろうか。
本棚にうんと詰め込まれた書籍が被った埃が、夕日を受けてきらきらと陽の名残りを弾きながら先生とKとの間を舞った。
「……ぁ、」
良く磨かれた黒翡翠のような先生の瞳は不安げに揺れ、いつもより男を誘うような翳りが濃くなっているような気がした。まるでKに嫌われるのを恐れているような風情さえする。
下半身が反応しそうになってしまい、Kは「いえ、」と歯切れの悪い返事を返しつつ、腕に抱いた本の山を机の端に置いた。
先生の自慰を見てしまってから、Kは先生を避けていた。巧い距離感を計りかねていたのだ。あまり近寄り過ぎては力任せに襲い掛かってしまいそうだったし、かといって姿が見えないほど遠くにいるのは耐え難かった。
「……そうですか。それなら良いのです」
先生は目を伏せる。
口元こそ笑みの体裁をとっていたけれど、目尻に物悲しそうな気配がべったりと貼りついている。そしてそれを隠すように机に向き直ってKに背中を向けた。
背広姿の背筋はいつものように、物差しでも差したように伸びている。菖蒲のように伸びやかで瑞々しく、凛とした雰囲気を宿している。
……だからこそ、ぽっきりと手折れてしまいそうだ。
Kは思わずその背に手を伸ばしそうになる。どきどきと心臓が高鳴っている。
準備室にはふたりしかいない。背後から抱き締めたら、先生はどんな反応を返すだろうか。振り払って烈火のごとく叱りつけるだろうか。あるいは戸惑いながらも身を委ねてくれる……?
「今日は遅くまでありがとう。助かりました」
「いえ、終わるまでお手伝いいたします」
「……帰りなさい」
「でも先生、」
「Kくん」
先生は椅子を引いて半身をこちらに向け、上目遣いにKを見た。自分を取り囲む生徒たちのひとりではなく、ただ自分ひとりだけに向けられた視線だ。自分だけの。
「君はいつも私を心配そうに見ているね」
憂いを帯びたまなざしに、Kの胸が跳ねた。次の瞬間に、先生のくちびるから何か良い言葉が出てくるかのような、嬉しい予感が沸き上がってくる。
先生もまた、自分を見ていてくれたのだ。
いつまでも会いに来てくれない誰かを待ち呆けるより、今、目の前にいる自分を選んでくれるかもしれない。
「せんせい、」
ゆるりと両手を述べて先生の頬を包む。
夕日に照らされた準備室に、ふたつの影が長く伸びる。
Kの見つめる先で、先生はふるふるとまつ毛を震わせた。その奥にある黒々した瞳にはありとあらゆる色が見て取れる。
黒とか白とか極端に振り切れない色を前にして、人間は自分の心情に合わせて勝手な幻想を見る。Kもそうだった。先生の瞳には自らに貞節を強いるものが確かにあったけれども、同じくらいの熱量でもってKを求めているように思えたのだ。
「……だ、……だめです、」
薄い造りの唇がわななき、距離を詰めたKから逃れようと腕を突っ張る。
けれど背けた首筋の白さ、あまりにも中途半端な抵抗がKを煽った。
なにがだめなものか。
そういう狂暴な衝動がKを支配する。
「先生っ、」
ぐいっと乱暴に体を抱き寄せれば、尚のこと先生は腕の中で顔を背けて、守るかのように身体を固く縮めてしまう。
そのつれない態度が余計にKの下半身が燃え上がる。男は逃げられれば逃げられるほど、追いかけたくなるようにできているのだ。
「っぅ──!」
強引に唇を奪われた先生はビクッ、ビクッ、と痙攣を起こしたように震えた。その全身は服を通していてさえ、熱く煮え立っていた。
……恐らく、あの日Kが先生の自慰を見てしまった時と同じ温度で。
「ンっ、んんっ、」
先生の咥内は甘やかな香りを振りまいていた。爛熟した水蜜桃に似ていてKの理性を剥いでいく。舌を絡めても、唾液を啜っても、まだ足りないと思わせる甘さがあった。
その甘さが理性をはぎ取っていく。
「せんせ……っ、」
Kはいよいよ先生に圧し掛かり、行為を迫るような姿勢を取った。
「だめ、」
拒否ばかりを口にする先生の、湿った声がいよいよ抜き差しならぬところまで来ているのを感じ、Kは顔を両手で掬い上げる。俯きがちに伏せられていた先生の瞳を真正面から見るために。
「先生、せんせい、……俺を見てください。
そしていっぱい叱ってください。今から、先生が泣き叫びたくなるくらい、いけないことをするのですから」
「っ、」
びくり、とまた先生が身を縮こまらせてた。Kを見る目が色を変える。どろりとしていた。欲望を煮詰まらせたような。言い訳を探して、机の引き出しや押し入れをひっくりかえすような。
「君は、……君は、あまりにも似すぎている……」
だからKに身を委ねるのは必然なのだと、その表情が言っていた。
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