神様だったひとたち

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「お前…またかよ。」課長がため息混じりに頭を抱えている。ああ、申し訳ない、情けない。「すみません、あの、本当に、次回はちゃんと、大丈夫でん、」噛んだ、最悪だ。 仕事を終えて外へ出ると、雨が降っていた。こんな時に限って、いつも鞄に入れっぱなしの折りたたみ傘は置いてきてしまった。ため息が落ちないように空気を少し飲む、大丈夫、すぐあがるだろう。歩き出して十分、そんな期待も虚しく雨足は強まり、全身ずぶ濡れだ。もう、仕方がないのでそのまま電車に乗り、帰宅する。玄関で服を全部脱ぎ捨て、そのまま風呂に入る。ああ、そうだ、バスタオル、今朝全部洗って、外に干したままだ。シャワーを浴びながらついにため息が漏れる。風呂からでて小さなハンドタオルで身体を拭くと、なんとか台所まで移動し、椅子に全てを預けた。 ああ、今日も冴えなかった。 「ただいま。」テーブルに置かれた一枚の写真立てに声をかける。写真の中の女性は何も応えない。 秋本里穂、彼女は冴えない男、秋本直輝の今は亡き妻である。 直輝は雨に濡れた洗濯物をしまい込み、そのまま床に横になると、目を閉じた。すごい雨だ、美穂は、大丈夫だろうか… 直輝には、里穂との間に娘が一人いる。既に社会人となり、この家も出ていってしまった。仲は悪くないが、どうしたって娘から尊敬はされていなかったように思う。半年に一度ほど「パパ生きてる?」とメッセージが届くが、それ以上会話ははずまない。 一歳くらいの頃の、小さな足で必死に歩き、自分の元へ寄ってくる美穂を脳裏で再生していると、沸かしていた湯が音を立てた。 慌てて立ち上がり、コンロへ急ぐ。「あちっ」火傷をしないで湯を注いだことがない。インスタントラーメンの蓋に重しをのせて椅子にもたれる。 あと、二分…一分…、三十秒…その時だった。 外が、激しく光った。カーテンを閉めていてもわかる、異常だ、雷なんてものでは無い、人工的というにも何かがおかしい。 直輝は急いでテレビをつけた。どうやら原因は分からないが、どこも同じように焦っている。ニュースに落ち着きがない。目と耳でテレビを追いながら、美穂に電話をかける。「パパ」すぐに聞こえた娘の声に安堵する。「おいおい、大丈夫か?ちょっと、わかんないが、これ…」「ニュースみてる?スマホニュースでもう上がってたけど、あ、ほら、テレビでも言ってるじゃん、どうしよ…こわ…」怯える娘の声に上書きされて、ニュースキャスターの女性の声が耳を伝わる。 「ええ…、はい、ええ…今、入りました情報によりますと、今までに例を見ない積乱雲が発生しておりまして、ええ…、申し訳ございません、…さ、先程の光は日本上空に漂う巨大な積乱雲の中で起きた静電気、…はい、雷との事です…、こ、これより今までに例を見ない巨大な竜巻の発生の可能性…はい、あ、今、はい、今!あ、中継です、」 画面が切り替わり大統領が映し出される。なんだ、大問題だな。この後国で用意出来る船に全国民を移動させて、この大陸から離れるらしい。そんなこと出来るのか?いや、つまり、大事だ!なんだ、逃げなければ。一ヶ月かけて全国民を…って、一ヶ月間は大丈夫なのか?嘘だろ?ああ、逃げなければ、逃げなければ。 いや、逃げるのか? 電話の向こうで、美穂が何度も呼びかけている。里穂に癌が見つかった時、あの時も俺は逃げた。怖かった、悲しくて見ていられなかった。笑顔で病気と戦う里穂の元へ、満足に見舞いにも行かなかった。美穂にだってそうだ。反抗期の美穂が怖くて、父親らしく叱ることも、寄り添うこともせずにただ逃げてきた。 直輝は立ち上がり、カーテンをあけて空を見た。「うあ、」思わず声が漏れる。ただならぬ恐怖、とはこういう事を言うのだろう。日本の空に、黒いひとかたまりの蓋をしてしまったようだ。「ああ、」恐怖の中、自身の小学生時代を思い出す。 「あ、あのね、俺、草とか、木とかのさ、声がわかるんだ…」あれは最悪の自己紹介だった。すぐにイジメの標的にされた。だが嘘ではなかったのだ。子供の頃、土や、木、虫や動物の声が聞けた。勿論、雲や、風の声も。「パパったら!」ハッとする、直輝はスマートフォンを握りしめた。「ごめんな、美穂、黙ってたことがあるんだ。パパ、自然の声が聞こえるんだ、おかしいだろ、」「何?え、何、」戸惑う美穂の声が聞こえる。「木とかさあ、わかるんだよな、思ってることが、忘れてたよ、ああでも、なんだか思い出してきたぞ…、皆怯えてる。風も草も…、ああ、ごめんな、こんなパパで、でも、本当なんだ、信じてくれ。」そこまで話すと、足の震えはもう止まっていた。「あたし、信じたくないけど、ママだったら信じなさいって言うから信じるよ。」美穂は静かだった。「で、何する気?」直輝はスマートフォンをその場に置いて、ベランダへの窓を開けると、言った。 「走る!」 直輝はベランダの柵を超えて、走り出した。とにかく足が絡まるほどに走った、広い場所だ、広い場所、広い場所は。 「ここから見る夜空は、綺麗よね。」里穂が照れたように笑っている。「ああ、そ、そうなんだ。」直輝は落ち着かない素振りで自身の足元ばかりを見ている。「もう、ポケットの指輪、丸見え。」里穂が潤んだ瞳で笑って、つられて直輝も笑った。 そうだ、プロポーズした、あの場所だ。あの時の空は綺麗だった、本当に、優しい風がふいて、そうか、応援してくれていたんだ、気が付かなくて、ごめんよ。直輝の足がもう限界を超える頃、やっとその広場についた。見上げると、黒い蓋だと思っていたそれは、大きすぎる雲の穴だと気がつく。 「頼む、お願いだ、美穂を、里穂とであったこの国を、全部を、逃げてきた俺を、どうか、」 直輝が声をかけると、周りの草が伸び始め、風が緩く吹き始める。木々は揺れて、虫や鳥が空に向かって飛び出していく。誰よりも冴えない弱く優しい男の周りを、沢山の命が吹き荒れていく。 「ああ、やっぱり、ここからの空は、本当に綺麗だね。」直輝は優しく笑った。 あれから二ヶ月が過ぎていた。相変わらず、湯を沸かすと毎回火傷をしている。今日は美穂が返ってくるのだ。 「ただいまぁ。」鍵が閉まっていなかったことをわかっていたように、扉を開けて美穂が言う。「ん、お、おお、おかえり。あ、どうぞ、あがって。」「緊張しすぎ!」声の震えが止まらない直輝を、美穂が睨みつける。その後ろから、優しそうな青年が顔を出した。「お、お邪魔します、すみません、突然、」深々とお辞儀をする青年につられて、直輝もお辞儀を返す。「あ、いやいや、そんな。」そんな様子を、美穂と、写真の中の里穂が、穏やかな表情で見つめている。
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