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アレキサンドラ二世、それが私の名前だ。幼い頃はサーシャと呼ばれていたが、今はその名で呼ぶ者はいない。アリオワでさえも。
「皇女殿下、麦と金の関税についてですが……」
「今年は我が国の麦は少ないわね。他国から関税をつけずに取り入れて。金は貴重な財源よ。周辺国では採掘されないから、そこを利用しましょう」
毎日、政務に携わっていると、だんだんと感覚が麻痺してくる。求められるまま応えていると、自我がすり減ってゆく。
けれど、構わない。私は幼い頃に自我によって大切な人の害悪になったのだ。アリオワの命は助かったが、傷痕は残った。そして、見つけた鉱物は父の病を癒さなかった。
「──皇女殿下、近衛隊長がお見えです」
「……? 分かったわ、通して」
何か不穏分子でも見つかったのだろうか? 訝しんでいると、包みを抱えたアリオワが入ってきた。
「皇女殿下にご挨拶致します。──しばし、人払いをして頂いても?」
「なぜ……? ──いいわ、あなたたちは呼ぶまで下がっていてちょうだい」
「かしこまりました、皇女殿下」
「皇女殿下、ありがとうございます。本日はこちらを殿下にと」
恭しく差し出された包みを受け取る。開いてみると、中身は揚げ菓子だった。
「これは……」
「皇女殿下が昔お好きでした菓子でございます。実家より送られてまいりましたので。覚えておいでですか? 今日は私の村の祭りなのですよ」
──思い出した。アリオワの故郷の祭りでは、この菓子を作って家族で祝う。水飴と乳を練り込んだ菓子は優しい甘さで、幼い私はこれが大好きだった。
「……覚えていてくれたの? 私がこの菓子を好んでいたこと」
「もちろんです。朝から政務でお疲れ様でしょう、一休みしてお召し上がりください」
懐かしさがこみ上げてくる。サーシャと呼ばれ、いつも一緒だったあの頃。
「……頂くわ。ありがとう、アリオワ。けれど多すぎるわね、アリオワ、あなたも一緒に食べなさい」
「皇女殿下のご相伴にあずかるなど、不敬にあたります」
「……本当にそう思っていて?」
一緒に菓子を頬張ったあの頃のように、サーシャと呼ばれたい。あの頃にひととき戻りたい。
「皇女殿下はこの国を牽引する重要なお方ですから」
「けれど、一人では食べきれないわ」
一人では寂しい、味気ない。──自我を封じてここまで来たはずなのに、アリオワには菓子ひとつで破られそうになっている。
──いついかなるときも。
常に演説している言葉を思い出す。私は鋼の皇女なのだ。
「皇女殿下、食べきれない分は侍女に下げ渡してください。民に施すことも徳を積むことになりましょう」
「……そうね、分かったわ。アリオワ、ありがとう。久しぶりに食べる菓子ね」
「皇女殿下、おそれながら──私のことは名前ではなく近衛隊長とお呼びください。名前をお呼び頂く身分ではございません」
アリオワの語調は柔らかいようでいて硬い。針水晶の針のように心に刺さる。
アリオワは──私のことは何でも覚えていてくれているのに、私を遠ざけてゆくのだろうか?
手元の菓子が色褪せて、ただの塊に見えてくる。
──いや、違う。今の私に相応しい態度をとっているだけだ。今の私には、近しくする要素などないのだ。
ならばなぜ、このような菓子をわざわざ運んでくるのか。幼い頃の思い出の菓子を。
「……あなたの言い分はもっともだけれど」
菓子をひとつつまみ、口元にあてる。甘い匂いが鼻腔をふわりとくすぐった。
そして、アリオワを見遣る。
「この菓子を頂く間だけ。少しだけアリオワとサーシャになりたいの」
「皇女殿下……それは、」
「つかの間の休息よ。……アリオワ、私たちは常に一緒だったでしょう? あなたは常に寄り添ってくれていたわよね? そのときの心はまだ生きていて?」
いけない。自我は人を犠牲にしてしまう。菓子ごときで揺らいではいけない。
だけど、懐かしさをくれたのはアリオワだ。少しだけ……ただ少しだけ、あの頃を懐かしみ楽しみたい。
アリオワは戸惑っていた。悩ましさが伝わってくる。迷惑なのか──やはり、自我は誰かを苦しめるのか。
おのれの言動を悔やみかけた、そのとき。
「分かりました。──サーシャ、あの頃は楽しかったね。僕も菓子を食べていいかな?」
「──もちろんよ」
歓喜に胸が震えた。義理でしかないかもしれない。仕える皇女殿下の我がままに付き合わされていると思っているだけかもしれない。──それでも、応えてくれるだけの心は私に対して持ってくれているのだ。
「アリオワ、お茶を淹れさせましょう。少しだけ休憩だわ。よろしくて?」
幼い頃の私に対して向けていたように、アリオワは仕方ないなといった表情で微笑んでくれた。
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