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* * *
──サーシャは、今なお特別な存在だった。
分かっている。彼女が鋼の皇女殿下と呼ばれるようになった原因は自分にあると。
あの時、洞窟で傷を負った自分のせいで、彼女は責任を感じて自我を抑えるようになってしまった。
彼女を守れたことは嬉しかったのに。誉れでこそあれ、責める思いなど微塵もないのに。
なのに、彼女は変わってしまった。
だから、こそだ。自分は自分の出来うる全てで彼女を守る。守り続ける。そのために近衛隊長になったのだ。
「近衛隊長様、お届け物がございます」
「なんだ?」
「ご実家から、どうやら祭りの菓子のようです」
「祭り……もう今年もそんな季節か。ありがとう」
故郷の祭りでは揚げ菓子を作って家族で食べる。幼い頃より城に上がっていた自分には、家族からのぬくもりを味わわせてくれる大切なものだった。
だから、幼い頃の自分は彼女にも分けていた。彼女は民の菓子を珍しがり、美味しそうに頬張って笑ってくれていた。それが嬉しくて、毎年祭りの季節を楽しみにしていた。
けれど、自分が洞窟で傷を負った年の祭りでは、彼女は菓子を食べてくれなかった。
それが悲しくて、実家には菓子を送ってくるのをやめるように伝えた。もう拒まれたくなかった。
今年は何の気まぐれか……それとも、故郷を忘れないようにか。
部屋に入ると、テーブルに包みがあった。開けてみると懐かしい匂いがして、不意に彼女にも食べてほしくなった。
あのとき拒まれたのに、愚かな話だ。
けれど、時が経った今なら、また食べてくれるかもしれないと淡い期待をいだいた。
執務室に足早に向かう。お目通りを願うと、補佐官の者が胡乱な眼差しを向けてきた。
「皇女殿下に、そのような貧相な包みを持って何用だ?」
「いえ、こちらは皇女殿下の幼い頃にお好きでした菓子で……」
「皇女殿下をいまだに子ども扱いか? 近衛隊長には身の程を弁えられよ」
「……申し訳ございません」
気持ちが萎えて沈んでゆく。自分は何を期待していたのか。
──けれど、皇女殿下の反応は違った。
共に食べようと仰せになってくださったのだ。そのうえ、かつてのようにサーシャとお呼びしてもよろしいとまで。
少しだけ。許された、限られた時を少しだけ味わいたい。
もう少しだけ。彼女が王位を継げば、このようなことは絶対に許されなくなる。
今は、もう少しだけ許してほしい。
時が来れば、自分は職責を全うするためだけに生きる。神に誓う。彼女の魂に誓って。
「アリオワ、この菓子は久しぶりね。やっぱり優しい味だわ」
「サーシャは幼い頃には私の分まで食べてしまって……それでも、どうしてか嬉しかったですよ」
「嫌だわ、恥ずかしい。はしたないことは忘れてちょうだい」
「はしたなくありませんよ、……とても愛らしかった」
踏み込むと、彼女は頬を薔薇色に染めた。耳まで色づいている。
それを見て、今年になって菓子を送ってきてくれた故郷の家族に感謝した。
つかの間、あと少しだけと願いながら幸福な時をすごした。
本当は──彼女には、鋼の皇女殿下という在り方を捨ててほしかった。叶わない願いだろうか?
国を背負うのは重いことだ。
それでも──せめて、自分の前でだけでも、変わらない彼女のままであってほしいと願うのは──不遜だろうか?
不遜に決まっている。近衛隊長ごときが、皇女殿下に寄せる想いなど。
「……少しだけ……昔に戻れたような心地だわ」
彼女がティーカップを置いて呟いた。
「それは──幸せですか?」
訊ねると、彼女は寂しそうに笑った。
「ええ。懐かしいけれど、味わってはいけない果実を味わうものよ。民の幸せを己の幸せと感じるべきならね」
──だけど、今は少しだけ味わえてよかった。彼女は消えそうな声でつけたした。鋼の皇女殿下なのに、抱きしめたいほど儚かった。
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