あちらの人

1/1
前へ
/12ページ
次へ

あちらの人

その人は、他の人と一緒にお風呂に入らなかった。 なぜなら、背中に鮮やかな鯉と観音様の絵があったから。 昔は綺麗だったんだろうなぁ、と思えるほど繊細で精密なできだった。 「若気の至り」 「掘ったときは死ぬかと思った」 漫画のポ○イの様な風貌で、朗らかに話していた。 とてもあちらの人とは思えないくらい穏やかで親切な男だった。 同じ部屋で、脚が不自由な彼といつもつるんでは、さりげなく手伝っていた。 彼のワガママも言いたい放題も、笑って受け止めてくれた。 「ワシの事は気にせんでええ、自分が好きでやっとることやけぇ」 手を振って答えてくれるその指は薬指、小指の第一間接が見当たらない。 何故?どうして?と、思うことを、さりげなくでも、直接的にでも聞いたが、決して過去を話さなかった。 そんなあの人が、一度だけ怒ったところを見た。  「!」 まるで不動明王のような憤怒の形相で、怒鳴っていた。 側にいると腕や襟足の毛が逆立った。 そこには、その人の正義があった。この正義のために境界線を越えたのだろう。 正義の境界線は人それぞれ。 自分のため、家族のため、社会のため、わからない何かのため。 その人は、側にいる人のために境界線を越えたのだろう。 普段は優しい穏やかな人だった。 朗らかで親切な人だった。 鷹揚で自分のことに無頓着な人だった。 何があったのか、どんな人生を歩んできたのかは教えてくれなかったが、穏やかな日々でなかったのは想像に難くない。 その人は呆気なく逝ってしまった。 突然廊下に倒れてそのまま… 自分のことで怒ることはなかったその人は、最後まで側にいる人のため正義を貫いた人だった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加