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信じるもの 彼
もう一人、
彼は人生を楽しんでいる人だった。
歌を歌うことが大好きで、サザンカの◯を熱唱し、踊ってはみんなを楽しませてくれた。
生涯独身で、だけど女性は大好きで、それなりにモテていた。
ある時期になると、
「ちょっと行ってくるから、晩御飯は要らないよ」と、声をかけては競艇に行っていた。
もうかる?
「トントン」
「有望な選手がいるから応援してる。」
「彼が勝てばね~」
そういうものか。
ある日、日当たりの良い場所で仲の良い人と将棋をしていた。二人でウンウン言いながら盤をにらめっこ。
平和だなぁ
だけど彼らが将棋をしながら真剣に話し合っていたことは、
死後の事。
シュールだ。
二人とも80を越え、90に届こうとする年齢。
そりゃあ気になるだろう。
だけど今さら?
もうちょっと前に考えない?
「あの世はない!」
「いやある!」
「終わったら何にもない!」
「輪廻転生があるはず!」
交わらない…
彼はもちろん、この世が終われば、おしまい。何にもないから、今を楽しむ!ってスタンスだ。
「今が大事」
有言実行だね~
そんな彼が怯えだした。
「死にとうない」
暗闇を恐れ、一人を嫌がり、布団の中で震えて出てこない。
何があった?
誰も心当たりがない。
そのままにしておくこともできず、主治医と相談し夜眠れる薬を出してもらい、なるべく付き添うようにする。
だけど震えが止まらない。
「死ぬのが怖い」
仏やあの世の話をしても、首を振るばかり。
「ワシは地獄を見たことがある」
「あんなところに二度と行きとうない」
彼は被爆者だった。
爆心地の、すぐ近くに居たそうだ。
地下にいたため熱線を避けられたが、生き埋めになった。
ようやっと崩れた建物から地上に出たと思ったら、地獄だった。と、
「恐ろしい。」
「何もかも、無くなった。」
あれから神も仏も、いなくなった。
ひたすら前を見て、楽しめる事を探して必死に生きてきた。と、
信ずるものもなく、すがることも出来ず、ただ震えている彼は、何も悪くない。悪いことをした訳でもない。
ただ、信じるものがあった彼女と違って彼は、道を見失い暗闇の中で震えていた。
結局、衰弱していく彼に何も出来ず、手を握りしめ、側にいることしかできなかった。
それでも苦悶の表情のままの彼を、見送った。
改めて、彼女は強かったと思う。
誰が何を信じようとも良いと思う。
ただ、彼のように怯えるのではなく、最後は心穏やかに逝けることを、願うばかりだった。
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