信じるもの 彼

1/1
前へ
/12ページ
次へ

信じるもの 彼

もう一人、 彼は人生を楽しんでいる人だった。 歌を歌うことが大好きで、サザンカの◯を熱唱し、踊ってはみんなを楽しませてくれた。 生涯独身で、だけど女性は大好きで、それなりにモテていた。 ある時期になると、 「ちょっと行ってくるから、晩御飯は要らないよ」と、声をかけては競艇に行っていた。 もうかる? 「トントン」 「有望な選手がいるから応援してる。」 「彼が勝てばね~」 そういうものか。 ある日、日当たりの良い場所で仲の良い人と将棋をしていた。二人でウンウン言いながら盤をにらめっこ。 平和だなぁ だけど彼らが将棋をしながら真剣に話し合っていたことは、 死後の事。 シュールだ。 二人とも80を越え、90に届こうとする年齢。 そりゃあ気になるだろう。 だけど今さら? もうちょっと前に考えない? 「あの世はない!」 「いやある!」 「終わったら何にもない!」 「輪廻転生があるはず!」 交わらない… 彼はもちろん、この世が終われば、おしまい。何にもないから、今を楽しむ!ってスタンスだ。 「今が大事」 有言実行だね~ そんな彼が怯えだした。 「死にとうない」 暗闇を恐れ、一人を嫌がり、布団の中で震えて出てこない。 何があった? 誰も心当たりがない。 そのままにしておくこともできず、主治医と相談し夜眠れる薬を出してもらい、なるべく付き添うようにする。 だけど震えが止まらない。 「死ぬのが怖い」 仏やあの世の話をしても、首を振るばかり。 「ワシは地獄を見たことがある」 「あんなところに二度と行きとうない」 彼は被爆者だった。 爆心地の、すぐ近くに居たそうだ。 地下にいたため熱線を避けられたが、生き埋めになった。 ようやっと崩れた建物から地上に出たと思ったら、地獄だった。と、 「恐ろしい。」 「何もかも、無くなった。」 あれから神も仏も、いなくなった。 ひたすら前を見て、楽しめる事を探して必死に生きてきた。と、 信ずるものもなく、すがることも出来ず、ただ震えている彼は、何も悪くない。悪いことをした訳でもない。 ただ、信じるものがあった彼女と違って彼は、道を見失い暗闇の中で震えていた。 結局、衰弱していく彼に何も出来ず、手を握りしめ、側にいることしかできなかった。 それでも苦悶の表情のままの彼を、見送った。 改めて、彼女は強かったと思う。 誰が何を信じようとも良いと思う。 ただ、彼のように怯えるのではなく、最後は心穏やかに逝けることを、願うばかりだった。
/12ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加