1/1
前へ
/1ページ
次へ
夢に中で誰かに呼ばれた気がして、蘭丸は目が覚めた。 上体だけ起こして少し布団から出ただけで、冬の冷気が身体の熱を奪っていく。 目の前に蟠る薄暗闇には、既に朝の気配が混じっている。 いつもは日が登る前に起きると言うのに、数分だけ寝坊してしまったようだ。 同じ部屋で共に寝る者たちの布団は、とうに折り畳まれて壁に寄せられている。 急がなければ、他の者に自分の分の朝食を奪われてしまう。 すっかり着なれたボロボロの小袖に腕を通し、痺れるような冷たさの井戸水で顔を洗って、漸く完全に覚醒した気がする。 髪を結い上げなければならないが、食欲を満たすのが先だ。 北風に身を震わせつ、蘭丸は、小走りで食堂へと向かうのだった。 * みじん切りにされた野菜や旬の魚がごった煮になった薄めの粥と、申し訳程度の野菜の漬物を掻き込み次第、蘭丸たち丁稚は、自らに充てがわれた仕事へと移る。 持ち場へと向かいながら、眠っていた間に見た夢のことばかりに考えがいってしまう。 誰か、親しい人物と話していた夢。どうしようもなく懐かしくて、胸が一杯になって。 ただ、生憎蘭丸には「懐かしい」と言う感情を向ける相手や、血縁者がいない。 主人の気まぐれで拾われるまで下総の寺で養われていたのだから、当然だ。 矢張り、気になる…… が 蘭丸は主人の身の回りを世話する重要な係だ。気を抜くわけにはいかない。 頬をパチンと二度ほど叩き、気を引き締め直す。 彼ら丁稚は、実質的に厠、食事、睡眠時間以外は暇がないのだ。 「主人!おはようございます」 地面に着き慣れた膝に食い込む石に顔を顰めつ、出来る限り元気に主人に挨拶をする。 「おはよう、蘭丸」 今日の主人は、機嫌が良さそうだ。 いい日になるかもしれない。 * 夢を見ていた。それは、とても綺麗な夢だった。 夕陽の残滓が、千切れ雲を竜の鱗の如く美しく彩ることから「金鱗台」と呼ばれる谷に立っていた。 此処は、遥か遠く清の国だ。蘭丸は漠然と、そう理解した。 浮世絵の如く美しい景色を背に、二人の若い男女が微笑んでいた。 女の方は、程よくふくよかな真白な肌、艶やかな黒髪だ。 男の方は、質素ながらも決して貧乏くさくない着物を身につけている。 彼らを形容するならば、まるで天女と天人だ、という表現が最もしっくりくるだろう。 「誰だ」 聞いてみても返事はなく、二人は顔を見合わせて寂しそうに微笑むばかりだ。 まるで、蘭丸のことなど視界に入っていないように。 「お前たちは何者だ?」 少し苛立ちを交えて聴くと、男の方が徐に叩頭した。 蘭丸が主人にするのとは少し形式が違うものの、男が蘭丸を敬っていることは理解できて。 「はっ?」 思わず、そんな言葉が溢れ出た。 叩頭されるようなことをしただろうか? 困惑していると、今度は女の方が蘭丸に一歩にじり寄り、何かを差し出してきた。 夕陽を受けて、「それ」の光沢が強調される。 受け取ると、ちりんと軽快な音が鳴った。 江戸の街でよく聴く音とは少々異なり、心なし響きが上品だ。 「江氏の……鈴……?」 "江氏"は、蘭丸の主人が敵対している清の国の商人。 これは、江氏が大切にしている鈴だ。一度だけ見たことあるから、たまたま知っていた。 女はゆっくりと肯首した。 「何故……。江氏の者……なのか?」 ふと、頭の奥から記憶が引き摺り出される。 蘭丸の頭を撫でる力強い手、仲睦まじい二人の会話、美しい景色――― 「父上と母上、なのですか………?」 続けようとする蘭丸の声が、掠れる。 すると女も、いや、蘭丸の母も、また叩頭して未だに同じ姿勢をとり続ける父と同じ姿勢をとった。 「二人に叩頭して頂く権利も地位も、わたしには―――」 言葉が喉に張り付いて、普段のように言葉をうまく紡げない。 きっと初めて、真の意味で誰かに心を開くからだろう。 殆ど初めて出会う母や父に、伝えたいことがあるのに。 蘭丸がそう思った時、二人がほぼ同時に頭を上げた。 穏やかに微笑み、呆然とする蘭丸にゆっくりと背を向けた。 見下ろして仕舞えば気が遠くなるほど高い谷へ向かって、彼らは前へ進んでいく。 このままだと、二人が落ちてしまう。もう、会えなくなってしまう。 無性にそう思った蘭丸は、必死に腕を伸ばして二人の肩を掴もうとした……が。 彼の手は空を掻き、諦めたように降ろされる。 全てが霧に包まれてゆく。 蘭丸が、次に気が付いたときは巨大な湖に立っていた。 膝下ほどまで貼られた水は冷くも暖かくもなく、蘭丸の貴重な体温を奪うことはなかった。 どこまでも澄んでいる水は美しいはずなのに、折角会えた両親を救えなかった罪悪感からか、蘭丸にはどこか虚しく見えた。 と、前を向くと。 谷の下に落ちたはずの二人が、水平線の先へいるのが見えた。 「待……っ!」 必死に追い縋ろうとするが足が水に取られて仕舞い、彼らとの距離は離れていくばかりだ。 何故だ――― 俯くと、自らが纏う見窄らしい小袖が目に入る。ぽつ、ぽつと薄汚れた生地に水が染み込む。 雨が降っているのでないかと疑ったが、残念ながら空は蘭丸を嘲笑うように晴れ渡っている。 この齢になって、情けない。彼は、自分が泣いていることを認めたくなかったのだ。 ―――そっと日が上り始めている。朝、だ。夢が醒める時間だ。 * ぱっちりと目が覚めると、頬のあたりに違和感があった。 普段より妙に冷たく、少し擽ったい。幼い頃は慣れして親しんでいた涙の感触だ。 ああ、女々しく泣いていたら主人や他の丁稚に揶揄われてしまう。 蘭丸は温かな水を寝巻きの袖で雑に拭い、大きく息を吸った。 きっと自分の生まれた地である清の方向を一瞥し、立ち上がる。 ―――蘭丸は結局、枕元にあった江氏の鈴に気付くことはなかったのだった
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加