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病院の天井は、意外と優しい色をしている。ただ、枕が硬い、シーツが張りすぎて、寝返りをうてば擦れる音が気になってしまう。櫻井陽子は目を閉じた。
もう、わたし、今日死ぬんだわ。
人は死が近くなると、自身の死ぬ日が分かるという。陽子は、そんな馬鹿な事があるだろうかと思っていたが、今はそれを身体の全てで感じ取っていた。きっと、昼間には、自分はもうこの身体の中にはいないんだろうと。陽子は今年で五十五の歳になる。周りはそれを、死ぬには若すぎる、と呼ぶのだろう。
そうかしらね、死ぬのも、生まれるのも早すぎるも遅すぎるもないんじゃないかしらね、そう、陽子は思い、そして何故、自身が今、死ぬ瞬間を感じとり、理解しているのだろうと疑問に思う。ならば、生まれるの日だって、理解していたのかもしれないと、忘れてしまっただけで。では、生まれるまでは何だったのだろう。誰だったのだろう。
「陽子、どう?」
カーテンがあいて、夫の忠信が顔を出す。「ああ、あなた、いつも通りよ。」天井に顔を向けたまま話す陽子の顔を暫し見つめると、忠信は「うーん」と唸りながら小さな椅子に腰掛けた。「昨日は徹が来ててさ、ちょっと前に銀座の劇団を見に行ったんだってよ。」何もこたえない陽子を気にせず、忠信は続ける。「俺たちあそこで良くデートしたね、なんたって出会いがあそこだもんね、あんな偶然ないよなぁ。陽子は知らないばーさんに付き合わされてあの場所で迷子。俺ぁ、偶然あの劇団のチケットを拾ってさ、二枚も、しかも渋谷で。」膝を叩いて笑う忠信の声をきいて、陽子も口元を緩ませる。「陽子見た時、すぐナンパしたよなあ、チケットもあったし。なのにあのチケットやけにボロボロでさぁ、使えません!って断られて、恥ずかしかったなぁ。」ついに陽子も声を出して笑った。「ええ、でもあなた、すぐに約束して、後日連れていってくれたじゃないですか。」「まぁなぁ。」忠信は照れくさそうに笑うと、ポケットから財布を出した。
「ああ、そういや、徹の彼女、写真あるぞ。良い子だよ。」膨れ上がった財布の中から、レシートやカードが陽子の寝るベッドに落ちる。「ああ、悪い、また怒られちまうな、ちゃんと整理しろって。」笑いながら拾う忠信を陽子も手伝いながら、ふと、見覚えのあるチケットを見つけた。
「ああ、それ、徹がこの間いってきたやつ、レシートやらと一緒にここにしまっちまったのか。」忠信は言うと、陽子の手からそれを受け取り、他のレシートと束ねてゴミ箱に入れた。
「あ、あったぞ。この子だ、美人だろ?陽子にはかなわないけどさ。」
楽しそうに話す忠信に、陽子も「綺麗な子ですね。」と、返す。ふと、時計に目をやると十二時になる頃だった。ひとしきり話すと、忠信は幸せそうにため息をついた。
「なあ、陽子、幸せだったか?」
「わたし、」途端、目の前にいる忠信がずっと遠くに移動したかと思うと、ゆっくりと部屋が回った。
「わたし、」すぐに視点は戻り、陽子は満足そうに笑った。「ああ、幸せでした。」もう、瞼を開けるのは気だるく感じるほどに、身体は緩んでいた。
「おい、陽子、陽子?陽子!」愛しい人の声が、名前を呼んでいる。そうだ、そうだった、これは、自身が選んだ人生だった。
記憶は、走り出す。
目を開けると忠信は居なかった。陽子がゴミ箱からチケットを二枚取り出し、顔を上げると、そこは渋谷の街だった。若い、スマートな青年が暇そうに喫煙所で口笛を吹いている。陽子は青年すぐ側を通り過ぎると、チケットを二枚、その場に落とした。そのまま十歩歩いたところで、そっと振り返ると、青年がチケットを拾い、小さく「ラッキー」と呟いた所だった。陽子が満足して前を向くと、そこは日比谷公園だった。「懐かしいわ。」つい声が漏れる。若い時、休日になるとよく一人で散歩にきていたっけ…、感情に浸っていると、心は穏やかになり、自然と手は腰に回った。ぐっと視線は低くなり、歩みはゆったりと遅くなる。まるでお婆さんだわ、と陽子は楽しくなった。
「すみません、あなた。」
「え?はい。」陽子が声をかけると、少女は驚いたように振り返った。「私、ちょっと身体が悪いのよ、ねえお願い、用事がある所までついてきてくれませんかね。」陽子の願いに、少女は周りを見渡し、困ったように「ええと、いいですが…」と返した。「ありがとう、ちょっと一駅、付き合ってください。」純粋な少女は、陽子の肩を支えながら、奇妙な感覚に襲われていた。銀座の有名な劇団の前に来ると、陽子は「ありがとうね。ありがとうね。」と言って、歩き出した。
空は澄んでいる。銀座の時計が、十二時をさしていた。
もう、笑うことも泣くことも無くなった陽子が、ベッドで寝ている。身体を捨てて、彼女の中身はどこかへいってしまった。そしてまた選ぶのだ。生まれることを。最愛の人に、出会うために。
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