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第1話
「ニカくん、資料できたよ」
「ありがとう、藤野」
こんな何気ない会話も、俺にとっては幸せな瞬間。
俺、藤野光は入社以来三年間『ニカくん』こと仁科和真に想いを寄せている。
入社式に同期であるニカくんに一目惚れした俺は、自分がゲイだと自覚してからの八年の間、途切れることがなかった一夜限りの恋が見事なまでに途切れて、今では彼一筋。
十二月も中旬。先週同期との飲み会のあとに俺はいつの間にか酔い潰れていたらしく、翌朝に自分がニカくんの家にいるということに気づいた。
ニカくんのベッドの中で一人目覚めた俺は、響くように痛む頭を抱えながら扉を開けた。
ニカくんの服まで身に付けていながら、俺は飲み会の途中から記憶がない。
けれどニカくんのベッドの中で、「俺が彼に抱きしめられる」というもの凄くよい夢を見たことは覚えている。
初めて来たニカくんの家。何かよい匂いの漂ってくる方へと歩いていくと、先ほどのベッドルームと同じく綺麗にされているリビングに辿り着く。
キッチンで後ろを向いているニカくんは、俺の分の朝食まで用意してくれていた。
「お、おはよう。昨日は迷惑掛けたよね」
苦笑いした俺に、ニカくんは微笑む。
「おはよう、よく眠れた?」
ニカくんは昨晩俺が着ていたシャツや下着までも洗濯してくれていて、その上アイロンまで掛けてくれていた。
ニカくんと向かい合って、俺は彼の作った朝食を口に運ぶ。
俺とは比べものにならないほど生活能力の高いニカくんを目の当たりにして「ニカくんの恋人は幸せだね」と思わず言葉が零れた。
するとニカくんは「俺は甘やかすのが好きだからね」と言って再び微笑んだ。
俺はニカくんが焼いてくれたパンをひと齧りしながら、ニカくんの愛情を独り占めしているあの彼女が心底羨ましいと思った。
ニカくんに彼女がいるということは、入社したての頃に彼と同窓の同期からリサーチ済。
俺は一度だけニカくんの彼女を見たことがある。
新人研修を終えた俺が一人帰宅していたその日、俺たちの会社のエントランスに一人の女性が立っていた。
次の瞬間、その女性に駆け寄るニカくんを見た。その場にいた俺はすぐさまそれがニカくんの彼女だと理解した。
遠目だったのに、とても可愛らしい子だった。
いかにも『女性』という雰囲気が見て取れて、彼女の傍にいるニカくんも会社ではしないような顔を見せていた。
あんなに悔しい思いをしたのは、生まれて初めてだった。
俺だって、周りからは『可愛い系』と言われている。仔鹿のような潤んだ瞳に長くカールした睫毛、ドーリーフェイスの微笑み、クセを生かした柔らかな髪に赤みを帯びた小さな唇、小柄で細い体。それから、ほのかに香らせた甘めの香水。
おかげさまで、これまで狙った男たちは皆、苦労せずして落ちた。
けれど俺にとってのニカくんは、今までの『体だけの男』とは全く違う。
それに、俺の『可愛い』はニカくんには論外。ニカくんに通用しないこの可愛さが恨めしい。
しかしながら、問題はそこではない。
ニカくんはノーマル。
……せめてニカくんがバイなら、まだ見込みはあったのだろうか。
俺が『ニカくん』と呼ぶようになったのは、例の彼女が理由。
初めの頃の俺は『仁科くん』と呼んでいた。けれどニカくんがあの彼女に見せた無防備な表情を「俺にもしてほしい」と思うようになった。
その時、俺は持ち前の可愛さと人懐っこさを爆発させる。無理矢理にも俺だけの呼び名(=『ニカくん』)を作り上げて、ニカくんとの距離を縮めることに成功した。
……とはいっても、あくまで『同僚』としてだけれど。
今週末にも飲み会がある。今回は部署の忘年会。
俺は先週のこともあって、ニカくんから『飲酒禁止令』が出されている。正確には、ニカくんがいない場合のみ発令される。
余程迷惑を掛けたのだろう。ニカくんには申し訳ないけれど、俺自身にはその時の記憶はない。
けれど、いつも優しいあのニカくんがそう言うのだから、俺は従わざるを得ない。
惚れた弱み。大好きなニカくんとの約束は、守らなければ……。
向かいの席で仕事をしているニカくん。この職場の自分の席は、俺にとっては文字通り『特等席』。なんていったって、ニカくんを見放題なのだから。もちろん控えめに眺めている。
急に席を立つニカくん。
俺は慌てて視線を外す。
ニカくんは後ろを向くと、窓際にいる二つ上の先輩の幡川さんの元へと歩いていったみたい。
美形男子のニカくん。涼しげな流し目に、通った鼻筋と肉厚の唇。背も高くて、程よく筋肉もあってスーツを着こなす。
(ニカくんの胸板に顔を埋めたい! あの両腕で抱きしめられたい!)
けれど、それだけに惹かれた訳じゃない。
ニカくんは俺では手の届かなかった棚上の資料を取ってくれたり、荷物で両手が塞がって歩きづらい時はさり気なく持ってくれたり。それがまた嫌味がなく、ニカくんはとにかく男前。
不器用で『自他ともに認める可愛い系の俺』とは真逆の存在。
そういえばここ数日、ニカくんがいつも以上に優しい気がする。
気がするだけだろうけれど……。
ニカくんが資料を手に戻ってきた。
俺は仕事をしているフリをして、横目でニカくんを見ていた。
すると、ニカくんが俺の視界から消える。
俺は今度は顔を伏せたフリをしてニカくんを探した。
その時突然、俺の背後からニカくんの声がする。
「藤野、気分悪いのか?」
「ひゃっ!」
俺はどこからともなく変な高い声が飛び出た。
勢いよく後ろを振り返ると、ニカくんは俺の椅子の背もたれに手を置いて、眉を寄せながら俺を見ている。
「あ、大丈夫」
平静を装おうとするあまり、俺は瞬きが増えていく。
俺は背もたれに置かれたニカくんの手の上に自分の右手が重なっていることに気づいた。
次々と降ってくる試練に対して、俺は咄嗟にこの状況を取り繕う。
「ゆゆゆ、指、長いね」
そう言いながら、俺はニカくんの人差し指を軽く持った。
すると、ニカくんは俺の手を握り返す。
「藤野は爪、綺麗だね」
その一言で、俺は全身が火照っていくのが分かった。
「あ、あ、ありがと」
俺は静かに微笑みを作りながらも、ニカくんに悟られないようにして彼の手から抜け出る。
俺は慌ててPCに向き戻って、仕事へ逃げた。
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